大峰奥駆道の半分以上は歩いていると思うが、南側に大きな未踏エリアがある。
奥守岳から笠捨山までがそれで、何度か足を踏み入れようとしたものの、未だに手を触れることができないでいる。
とにかく交通が不便で、周回ルートもとれないので、テント泊にするとアプローチと下山後が大変。往復するには今となっては距離が長過ぎる。
しかしどうにも諦めがつかず、何とかならないだろうかと考えて、引き出した答えは「白谷トンネルから行仙岳に上がって北に向かう。できれば奥守岳まで行って戻ってくる」というもの。
往復で25kmほどになるが標高差はあまり大きくないので、12時間くらいかければ行けるのではないかと考えた。
ただし早出しなければならないので前日中に麓まで行っておかなければならない。
ということで5/22(木)の午後に家を出た。天気予報では翌週はずっと雨模様なので、翌日の晴れがラストチャンスだった。
こういう機会に訪れておきたい場所が二ヶ所ある。
一つ目は川上村神之谷の金剛寺で、以前に一度訪れているが、ぜひ再訪したいと思っていた。
前回来た時は誰にも会わず、ひと気のまったくない雰囲気だった。今日も平日なので誰もいないだろうと思っていたが、到着したら車が停まっていて、3人の人がおられた。みんな首から名札を提げていて、いかにも仕事という感じ。何の仕事だろう。向こうもちょっと意外な感じでこちらを見ている。
車を停めてお寺に向かう時に「こんにちは」と声をかけられたので、同じように返事して石段を上がったら、今度は上にある管理のための建物のそばに車が停まっていて、何か荷物を運んでいる人がおられた。またまたびっくり。
向こうは私のことに気が付いていないようなので、だまってさらに上の石段を上がった。
本堂はうっすらと記憶がある。
靴を脱いで扉の前まで行ってみたがやはり戸は閉められていた。しかし格子の隙間から覗くことはできた。
役行者が大峰山から投げたという地蔵菩薩はどれ? 真ん中にあるのは鏡のように見えるけれど。
本堂の右には自天親王神社。
二つの祠が少し角度のついた位置で並んでいる。
左が八坂神社(素戔嗚尊)で右が本殿。本殿は自天王と忠義王(南朝皇胤の兄弟。自天王が兄)を祀っている。両宮は1457年、長禄の変において赤松家の賊によって殺害された。
禁闕の変(1443年)において三種の神器の二つが奪われたが、その時に宝剣は奪い返された。しかし神璽はそのままで行方不明になったが、その後、このあたりに隠されているということがわかって、赤松家がそれを奪い返すための武力行動を起こした。
本堂の左には河野宮(忠義王)の陵がある。長年、川上村では自天王の墓としていたのだが、明治時代に宮内庁が忠義王の墓に治定した。
しかしここに上がる石段のたもとにはこんな石が。
「南帝自天皇陵」と読める。右は「後亀山天皇玄孫(おそらく)」。
そばには尊秀王の墓。
この写真の「尊」の字体はパソコンには登録されていない。
尊秀王は後南朝の指導者だが詳細は不明。禁闕の変の首謀者の一人で、この時に殺されているらしいが詳細は不明。
尊秀王とは自天王のことという説もあるが、そうではないという説の方が有力。
長禄の変の時、忠義王はこのあたりに潜んでいた模様。
駐車場所に戻ったらさっきの人たちはいなくなっていた。
お次はさらに30分ほど南に向かって、上北山村小橡(ことじ)の瀧川寺へ。ここは初めて。
明治時代に宮内庁によってこちらが自天王の墓と治定された。
「北山宮」というのは自天王のこと。
山門の横にも。
山門をくぐると正面に本堂。
本堂の向かいには神社。これが「北山宮」?
本堂の横に宮内庁の案内板。
石段の前に簡単な柵が置かれていたけれど、さほど厳しく立ち入りを禁じているような感じではなかったので、石段を上がってみた。
本堂に戻って扉に手をかけてみたら開けることができた。中に入ってみるとかすかに線香の香りが残っている。
お札が置かれていたので賽銭箱に千円入れてもらってきた。
長禄の変の際、自天王はこのあたりに潜んでいた模様。神璽が隠されていたのもこのあたり?
となると三之公のカクシ平は何? ここにあったお墓は「尊義親王」と書かれていた。
なお、後南朝の歴史に関しては不明な部分が多く、ここに書いたことが必ずしも史実として確定しているわけではありません。
ここに述べたような事件があったことはほぼ事実だが、当事者が誰であったかということでは不明な点が多い。
このあと、下北山スポーツ公園の駐車場に車を停めた。小さいながらもきれいなトイレがあって快適でした。
よく知られているのか、翌朝にはたくさんの車が停まっていた。