郡山へ

6/26(木)は甲府から福島県の郡山まで行く。郡山には特に目的があるわけではなく、普通列車を乗り継いで行くのに時間がちょうど良かったから。

前日にコンビニで買っておいたパンと牛乳、そしてコーヒーの朝食を取って、8時前の甲府発高尾行きの列車に乗り込んだ。

1時間半ほどで高尾に到着して、ここで東京行きの特別快速に乗り換える。

出発時点で満席になった。

通勤通学の時間帯は過ぎているのだが、関西での通勤ラッシュなみの混み方だった。

新宿から湘南新宿ラインで宇都宮に向かえばだいぶ時間短縮できるのだが、太宰は上野から東北本線に乗っているので、その経路を辿ることにする。

なつかしの母校(東京理科大学)。建物は50年前とは様変わりしている。

1時間ほどで東京駅に到着した。東京駅の構内はまるで百貨店のよう。昼食用におにぎりを買った。

東北本線で宇都宮へ。

2時間かかってようやく宇都宮に着いた。

すでに1時を少し過ぎているのだが、わりと乗客が多かったのでおにぎりを食べるのははばかられた。

次の黒磯行きは北に向かうのでおそらく空いているだろうと思っていたら、何と高校生の大群で大混雑。何でこんな時間にこんなにたくさんの高校生が?

そのうちにどこかの駅でどさっと降りていくのだろうと思っていたが、実は高校は複数あって、少しずつ降りて行くという状態だった。

5駅くらい行ったところで何とか座れたが、終着の黒磯まで乗っていた高校生もいたし、途中の駅で乗ってくる高校生もいた。何でこんな時間に?

この路線は避暑地の那須高原のそばを通っていて、まさかこんな場所に高校がいくつもあるとは思わなかった。

黒磯には2時過ぎに着いた。乗り換え時間が小一時間あるので、駅の待合室でようやくおにぎりにありついた。

そして白河へ向かう。今度は空いていた。

白河と言えばやはり「白河の関」が有名。奈良時代から重要な関として位置付けられていたが、現代人にとってはやはり高校野球だろう。

2022年の夏の大会で仙台育英高校が優勝するまで、東北勢は白河の関を越えられないと言われてきた。東北を飛び越して北海道の高校は何度か優勝しているのだが。

その白河で今日最後の列車の郡山行きに乗り換える。

午後4時半にようやく郡山駅に到着した。甲府から360kmほどの列車旅だった。

駅の近くのホテルにチェックイン。

今日は電車に乗りっぱなしでまったく運動していないので、夕食は駅のフードコートでラーメンと小どんぶりのセットで簡単に済ませた。喜多方ラーメンということだったが私はそれほどラーメン通ではないので、違いはあまりよくわからなかった。

甲府へ

太宰治は戦時中、東京の三鷹の借家で暮らしていた。

次第に空襲が激しくなり、妻子は奥さんの実家の甲府に疎開したが、三鷹のあたりも空襲が激しくなってきたため、本人も甲府に疎開することになった。

しかしその甲府にも米軍機がやってきて、疎開先の家が空襲の被害にあって住む家が無くなり、しばらく奥さんの親戚の家などを転々として過ごしたが、そんな生活をいつまでも続けるわけにはいかず、致し方なく太宰の生まれ故郷の津軽に一家で疎開することにした。

その時のことが「たずねびと」という作品に書かれている。

ここでの出来事はおそらく創作だと思われるが、記述されている津軽への道のりは真実だと思う。

その当時は上野から青森までの急行列車というのが運行されていたのだが、その頃の電車の混雑ぶりは殺人的で、小さな子供を二人連れた家族連れが乗り込めるような状態ではなかった。

やむなく途中までの普通列車を乗り継いで仙台の先の小牛田(こごた)までたどり着いたのだが、ここに至る途中での出来事がこの作品の舞台になっている。

ここまでは東北本線でやってきたのだが、青森の方も空襲で、このまま東北本線で行っても青森まで到達できるかどうかわからない状況だったので、ここから陸羽東線で山形の新庄に出て、そこから奥羽本線で秋田を経由して東能代へ。

ここで五能線に乗り換えて五所川原まで行って、そこから津軽鉄道で金木に至るという経路で実家を目指すことにした。

この作品を読んだのはわりと最近のことなのだが、読み終わってからこの経路を自分も電車で辿ってみたいという気持ちがにわかに湧いてきた。それも新幹線や特急は使わずに普通列車で。

太宰は4日かけて甲府から津軽まで行ったのだが、私は甲府から5日かけて行く行程にした。出発地点の甲府までは新幹線と特急で行く。

ということで6/25(水)に京都駅から新幹線に乗って、まずは名古屋駅にやってきた。

少し早めに着いて、きしめんを駅の立ち食いで食べた。

そして「しなの」で塩尻へ。

電車旅の特権でビールを買って乗り込んだのだが、飲んだ後の気分は今ひとつだった。

塩尻では乗り換え時間が3分しかないので心配だったが、何とか「あずさ」に乗り込むことができた。

「あずさ」ではめずらしく車内販売が回ってきた。まだ車内販売が残っている列車があるのだ。

韮崎あたりでは一時強い雨だったが、甲府に近づくにつれて止んできた。

甲府には午後3時頃に到着した。甲府に来るのは2年ぶり

コンビニのコーヒーを飲んで、武田信玄にご挨拶。

時間があるので舞鶴城へ。当然、信玄のお城と思っていたが、実は武田家滅亡後の秀吉政権の時代の築城とのこと。

鉄門(くろがねもん)。

天守台。

南の方を望むが富士山は見えない。

金峰山や国師も見えず。暑くてたまらず、ベンチに腰掛けて休憩した。

稲荷櫓はちょうど入り口が閉門されてしまった。

そしてホテルにチェックイン。

一息ついてから夕食は駅のそばまで戻って、前回行ったほうとうの店に行った。

「ほうとう」は「きしめん」の太いバージョンという感じで、お昼とかぶってしまった。

前回も苦労して完食したのだが、今日はビールを飲まなかったにもかかわらず完食できなかった。

一体山、柳生街道

6/22(日)は奈良北部の一体山に登って、その後、柳生街道を歩いてきた。この山は名前を聞くのも初めて。

近鉄奈良駅に集合して、バスで大柳生口へ。

しばらく車道を歩く。正面奥が一体山?

夜支布山口神社に参拝。

荒れた林道を行く。

マムシ!!

出発して1時間半ほどで一体山の山頂(594.8m)に到着した。

山頂には役行者の像。

そばの鉄塔のところで昼食にした。

同じ道を引き返す。

京都方面の眺め。

ホタルブクロ。

たんぼのそばにガマの穂。

南明寺に立ち寄ったがロープが張られていて入れず。以前に個人的に訪れた時もそうだった。

そして「おふじの井戸」。

それから20分ほどしっかり登って、かえりばさ峠に到着した。

少し下って、疱瘡地蔵。

そして柳生の集落に出た。

さらに天乃石立神社に寄り道。

さらに奥には柳生一刀石

芳徳寺は以前にも訪れていたがまったく記憶無し。

前回は中には入らなかったが、今日は入山料を払って入った。

柳生家のお墓。

荒れた道を下って車道に出て、柳生のバス停にゴールした。

それにしても蒸し暑い一日だった。自動販売機で500mlのジュースを買って、一気に飲み干した。

大文字山

6/11(水)は京都一周トレイルの講座で雨の中を大文字山へ行ってきた。

地下鉄の蹴上駅に集合して、まずは蹴上の発電所を眺める。煉瓦造りの建物は今は稼働していないが、後ろの白い建物は現役。

三条通りを渡って「ねじりまんぼ」を通る。

義経地蔵。

源義経が鞍馬山から奥州へ向かう道中の安全祈願に日向大神宮を参拝した。その途中東海道中の日ノ岡峠にて、平家の関原与一ら9人の一団とすれ違う。その際、一団の馬が蹴り上げた泥水を義経にかけてしまい、衣服を汚してしまう。謝ることなく通り過ぎた一団の無礼に怒り、義経は9人をその場で切り殺したと伝えられている。

切り殺された9人の菩提を弔うために村人が石仏を安置したという話と、我にかえった義経が自分の行為を悔やんで村人に弔いを頼んだという話も。

「蹴上」の地名の由来はこの話しから来ているとか。

インクライン。

そして参道を通って日向大神宮へ。

石段を上がってまずは外宮。

さらに奥の内宮へ。

山道に入るとまずは天の岩戸。

木の根の張った道を進んで思案処へ。

いつもの展望場所は木も繁ってきて、さらに今日は雨で雲がかかって何も見えないので通過。

日向大神宮から1時間半ほどで大文字山手前の分岐まで来た。

そしていつものように大文字山の山頂(465.2m)で昼食にした。ここはいつも人混みだが、さすがにこの雨では誰もいない。

展望はゼロ。

京都一周トレイルのコースは先ほどの分岐から沢筋を鹿ヶ谷の方へ下るのだが、今日は雨で沢筋の道が歩きにくそうなので、火床の方に下ることにした。

火床の最上部に出たが相変わらず何も見えず。

石段を下って大文字の文字の真ん中へ。

ガスが晴れてきました。

「大」の字の左の払いを辿って仙人束へ。

そして銀閣寺前に下山した。

あとは参道を通って公衆トイレの前で解散した。

その後、私はかねてから一度訪ねてみたいと思っていた法然院の谷崎潤一郎の墓に向かった。

法然院は京都一周トレイルのコースのそばなのでこれまでに何度も立ち寄っているが、講座中なので個人的な寄り道はできない。

お墓のエリアに入ったがなかなか見つからず、ネットで検索してようやく探し当てることができた。

谷崎自筆の「寂」と彫られている左の石が谷崎潤一郎の墓。

右の「空」と彫られているのが谷崎の最後の妻の松子夫人の妹の重子夫妻の墓。

これまでに著名人のお墓は何度となく訪れているが、いずれも案内板のようなものがあって、お墓には誰かがお参りしているような花などが添えられていたのだが、ここに関してはそういうものが一切なく、もの寂しい雰囲気だった。

谷崎潤一郎ほどの作家のお墓とは思えない「寂しさ」を感じた。

眼鏡山

6/2(月)は講座で生駒北部の室池園地そばの眼鏡山へ行ってきた。室池園地は過去に何十回も訪れているがいつも生駒縦走の途中の素通りで、あとは講座で何度か歩いたくらい。こんな山があることはまったく知らなかった。

JR四条畷駅に集合して、まずは四條畷神社に向かう。

本殿にお参り。祭神は楠木正行。楠木正成の息子。

蟹ヶ坂ハイキングコースに向かう。大阪市街地を見下ろす。

龍尾寺(りゅうびじ)に寄り道。

本堂。

未舗装林道をしばらく歩いて、ようやく山道に入る。

手すりのついた急な階段を登ったりして、室池園地のエリアに入った。

トイレのそばの広場で昼食にした。

ハコネウツギ。

公園の車道から分かれて山道らしい道を少し登って、眼鏡山に到着した。三角点(361.1m)もあります。

少し戻って広場で休憩。

しばらく車道を歩いて、堂尾池の方に向かう。昔、いつも室池園地に入る時に通っていた道は通れなくなっていた。

堂尾池のそばで一休み。

キショウブ。

午後2時過ぎに田原台のバス停で解散した。

高島・乗鞍岳

5/25(日)は講座で高島トレイルの乗鞍岳へ行ってきた。終日、小雨だった。

JRマキノ駅からバスで国境スキー場(今は別の名称になっている)へ。

ここが高島トレイルの起点。

駐車場への車道を少し歩いてからゲレンデの斜面に入る。

スキーでは何度も滑っているが、無雪期に歩くのは初めて。

20分ほどの登りでゲレンデトップへ。

そして山道に入る。

30分ほどがっつり登って稜線に出た。

なだらかな稜線を30分ほどで乗鞍岳の山頂(865.1m)に到着した。

天気が良ければ気持ちのいい稜線なのだが、今日は生憎の天候。

鉄塔のある広い場所で昼食にした。

その後、稜線から少し分かれた芦原岳へ立ち寄り。

また稜線から少し離れて猿ヶ馬場山(651.5m)へ。ここは三角点がある。

午後1時半頃に黒河(くろこ)峠に降り立った。

そばの東屋でトイレ休憩。

あとはひたすら林道を歩いて白谷のバス停に向かう。

3時前、予定よりも1時間ほど早くバス停に到着することができた。

予定よりも1本早いバスで帰ることができた。

天河大辨財天社

5/23(金)はいよいよ奥駆道南部に向かう。

白谷トンネル入り口手前の行仙岳登山口のそばのスペースに車を停めて、6時頃に出発した。

最初は急な階段。

さっそく階段を登り始めたが、出だしから体調が非常に悪い。脚が重くて力が入らない。

昨年末に心電図の検査で不整脈が発覚した。ここ1〜2年、たまに身体が重くてだるいということがあったが、どうも不整脈が原因だったもよう。1月の北海道も今ひとつ気力が出なかったが、これも不整脈が原因だったのかも知れない。

医者から「カテーテル・アブレーション」という治療を勧められて、3月の末に施術を受けた。

これでもう安心できるのかと思いきや、残念ながらその後の体調は今ひとつ芳しくない。

日常生活においては改善しているように思われるが、運動時は相変わらず身体が重くて、長年の日課だったジョギングもこのところ散歩に切り替えている。

講座の仕事は問題なくこなせているのだが、今日はいきなり急な階段登りだったせいか非常に調子が悪い。

階段が終わってなだらかな登りになったが、それでも復調の兆しが感じられない。

せめて行仙岳まででも思ったが標高差が400mくらいあるので、この調子ではとても辿り着けそうにない。

出発してまだ10分も経たないくらいだが、無理して進んでさらに体調が悪化したら下れなくなってしまう。携帯は圏外だし、平日のこんな場所では人に出会う可能性は低い。

また来ようと思えばいつでも来られるくらいの場所なので、今日は諦めることにした。

車に戻って後片付けをしてもまだ7時前。このまま往路を戻るだけではあまりにも虚しいので、ひとまず十津川村の方に向かうことにした。

もし対向車が来たらどうしようかとハラハラしながら1時間以上走って、ようやく十津川村まで辿り着いた。

できれば温泉に入りたかったのだが、さすがにこの時間では空いているところが見つからないので、とりあえず北に向かう。

このまま北上すると五條市に出るのだが、ふと思いついて天川村の天河神社(天河大辨財天社)に行ってみようと思った。

途中から天川村に向かう道に入ったが、これもまた離合不可能な狭い道が延々と続いた。何度か対向車に出会ったが何とかすれ違うことができた。

9時過ぎにようやく天河神社に到着した。平日の午前中だが、そこそこの参拝客がおられた。神社の職員も忙しそうだった。

石段を上がって、本殿。

反対側に降りると役行者堂。

すぐそばに天石。

戻って、本殿の少し下には五社殿。

実はここは南朝とのつながりが濃いらしいのだが、そのことは帰ってから知った。残念。

行動食を食べたりして時間潰しをして、橿原市でようやく温泉に入ることができた。

地下から汲み上げた炭酸泉で、浸かっていると肌に小さな泡がついてくる。漢方釜風呂というのがあって入ってみたが、薬草の香りのするサウナだった。寝そべると背中にお湯のながれる寝湯もあって、なかなか楽しめる温泉だった。

平日の午前中だというのに結構な数の入浴客がいて、しかも若い人たちもそこそこいたのが意外だった。

あとはのんびりと帰るだけでした。

金剛寺、瀧川寺

大峰奥駆道の半分以上は歩いていると思うが、南側に大きな未踏エリアがある。

奥守岳から笠捨山までがそれで、何度か足を踏み入れようとしたものの、未だに手を触れることができないでいる。

とにかく交通が不便で、周回ルートもとれないので、テント泊にするとアプローチと下山後が大変。往復するには今となっては距離が長過ぎる。

しかしどうにも諦めがつかず、何とかならないだろうかと考えて、引き出した答えは「白谷トンネルから行仙岳に上がって北に向かう。できれば奥守岳まで行って戻ってくる」というもの。

往復で25kmほどになるが標高差はあまり大きくないので、12時間くらいかければ行けるのではないかと考えた。

ただし早出しなければならないので前日中に麓まで行っておかなければならない。

ということで5/22(木)の午後に家を出た。天気予報では翌週はずっと雨模様なので、翌日の晴れがラストチャンスだった。

こういう機会に訪れておきたい場所が二ヶ所ある。

一つ目は川上村神之谷の金剛寺で、以前に一度訪れているが、ぜひ再訪したいと思っていた。

前回来た時は誰にも会わず、ひと気のまったくない雰囲気だった。今日も平日なので誰もいないだろうと思っていたが、到着したら車が停まっていて、3人の人がおられた。みんな首から名札を提げていて、いかにも仕事という感じ。何の仕事だろう。向こうもちょっと意外な感じでこちらを見ている。

車を停めてお寺に向かう時に「こんにちは」と声をかけられたので、同じように返事して石段を上がったら、今度は上にある管理のための建物のそばに車が停まっていて、何か荷物を運んでいる人がおられた。またまたびっくり。

向こうは私のことに気が付いていないようなので、だまってさらに上の石段を上がった。

本堂はうっすらと記憶がある。

靴を脱いで扉の前まで行ってみたがやはり戸は閉められていた。しかし格子の隙間から覗くことはできた。

役行者が大峰山から投げたという地蔵菩薩はどれ? 真ん中にあるのは鏡のように見えるけれど。

本堂の右には自天親王神社。

二つの祠が少し角度のついた位置で並んでいる。

左が八坂神社(素戔嗚尊)で右が本殿。本殿は自天王と忠義王(南朝皇胤の兄弟。自天王が兄)を祀っている。両宮は1457年、長禄の変において赤松家の賊によって殺害された。

禁闕の変(1443年)において三種の神器の二つが奪われたが、その時に宝剣は奪い返された。しかし神璽はそのままで行方不明になったが、その後、このあたりに隠されているということがわかって、赤松家がそれを奪い返すための武力行動を起こした。

本堂の左には河野宮(忠義王)の陵がある。長年、川上村では自天王の墓としていたのだが、明治時代に宮内庁が忠義王の墓に治定した。

しかしここに上がる石段のたもとにはこんな石が。

「南帝自天皇陵」と読める。右は「後亀山天皇玄孫(おそらく)」。

そばには尊秀王の墓。

この写真の「尊」の字体はパソコンには登録されていない。

尊秀王は後南朝の指導者だが詳細は不明。禁闕の変の首謀者の一人で、この時に殺されているらしいが詳細は不明。

尊秀王とは自天王のことという説もあるが、そうではないという説の方が有力。

長禄の変の時、忠義王はこのあたりに潜んでいた模様。

駐車場所に戻ったらさっきの人たちはいなくなっていた。

お次はさらに30分ほど南に向かって、上北山村小橡(ことじ)の瀧川寺へ。ここは初めて。

明治時代に宮内庁によってこちらが自天王の墓と治定された。

「北山宮」というのは自天王のこと。

山門の横にも。

山門をくぐると正面に本堂。

本堂の向かいには神社。これが「北山宮」?

本堂の横に宮内庁の案内板。

石段の前に簡単な柵が置かれていたけれど、さほど厳しく立ち入りを禁じているような感じではなかったので、石段を上がってみた。

本堂に戻って扉に手をかけてみたら開けることができた。中に入ってみるとかすかに線香の香りが残っている。

お札が置かれていたので賽銭箱に千円入れてもらってきた。

長禄の変の際、自天王はこのあたりに潜んでいた模様。神璽が隠されていたのもこのあたり?

となると三之公のカクシ平は何? ここにあったお墓は「尊義親王」と書かれていた。

なお、後南朝の歴史に関しては不明な部分が多く、ここに書いたことが必ずしも史実として確定しているわけではありません。

ここに述べたような事件があったことはほぼ事実だが、当事者が誰であったかということでは不明な点が多い。

このあと、下北山スポーツ公園の駐車場に車を停めた。小さいながらもきれいなトイレがあって快適でした。

よく知られているのか、翌朝にはたくさんの車が停まっていた。

比良岳、烏谷山

5/18(日)は講座で比良の比良岳と烏谷山を歩いてきた。

びわ湖バレイのロープウェイで山頂まで行く。

奥に武奈ヶ岳(左)とコヤマノ岳(右)。手前の稜線がこれから歩くルート。

まずはスキー場のコースを下って木戸峠に向かう。

キャンプ場のあたりにクリンソウ。

イワカガミ。

少し登り返して木戸峠に出た。

その後、稜線を辿って40分ほどで比良岳(1051m )へ。

ぐっと下って葛川越へ。

下った分を登り返して烏谷山(からとやま。1076.5m)へ。ここで昼食にした。

びわ湖方面はあまりはっきり見えない。

まだどんどん下る。シロヤシオ。

振り返ると打見山と蓬莱山。

20分ほどの下りで荒川峠へ。

ここからJR志賀駅に向かって下る。まだシャクナゲが残っていた。

沢筋に降り立ったところに湧水があった。

しばらく下ると車道に出た。

あとはずっと車道。

時間潰しに松の浦の浜辺でひと休み。

3時20分に志賀駅に戻ってきた。稜線のあたりは雲がかかっていた。

清水山

5/14(水)は京都一周トレイルの講座で清水山を歩いてきた。

京阪の清水五条駅に集合して、しばらく五条通りを東に歩く。

歩道橋の上から清水山を望む。

間の道を歩いて、渋谷街道の旧道に入る。

五条通りのトンネルを潜ってから石段を上がると右手に清閑寺。

清水寺に裏から入って本堂を望む。平日の午前中だがとんでもない人混み。

トイレ休憩のために少し下って、音羽の滝に立ち寄る。

少し戻って一周トレイルのコースに入る。

20分ほど登って清水山(242.2m)へ。

その後、東山山頂公園で昼食にした。

ここからの比叡山は気が茂って見えにくくなってきた。

昼食後はそばの展望場所から京都市内を眺める。これは愛宕山方面。

都ホテルのそばを通って、尊勝院。開いていた。

粟田神社の前から三条通りに出た。

その後、三条通りを地下鉄の東山駅まで歩いて、そこで解散した。