猛練習と科学的トレーニング

久しぶりにとんでもない大作を読了した。何と二段組み700ページという作品で、単行本の厚みは5cm近くある。
学生時代はドストエフスキーやトルストイなどを粋がって読んだりはしたが、はっきり言って『読んだ』ではなく『読み流した』というのが実情だった。
しかし今回は本当にしっかりと読了した。
それは、増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』。
一時期、格闘技の熱いファンだった私は、この本は発売当初から知ってはいたが、あまりの大作にいささか腰が引けていた。しかし最近、図書館で借りられる状態になっているのを見つけて、さっそく借りてきたというわけである。
これまでの木村政彦に関する知識と言えば、若い頃のエリオ・グレイシーに勝ったこと、力道山に負けたこと、史上最強の柔道家と言われているらしいということくらいだった。格闘技は好きだが、柔道やプロレスにはさほど興味が無いので、気になるのはエリオとの試合だけだった。
この本の内容は、木村政彦の生涯を俯瞰したようなものだ。それにまつわる柔道の歴史にもかなりのページが割かれている。若干注意が必要なのは、著者の増田氏が『木村信者』だということ。特に力道山に対する嫌悪感は相当なものが感じられる。
それはさておいて、木村政彦の若い頃の練習は、本当にすさまじい!!。こんな練習を生身の人間が何日も続けることが可能なのかと疑いたくなるくらいだが、それを何年か続けていたようだ。
昨今はスポーツのトレーニングはできるだけ科学的なメニューを作って、最小の努力で最大の効果を得ようとしている。そのこと自体は決して間違いではないとは思う。
ただ、並みの一流を飛び抜けて超一流を目指すのであれば、常識や科学を超越した猛練習が必要なのではないかと思わせる著作である。
様々なスポーツの分野で往年大活躍した元選手が、『今の選手は練習が足りない』と言われるのをしばしば耳にする。
野球では頻繁に聞かれるし、サッカーの釜本氏や、マラソンでは瀬古氏などにも同様の発言があったように思う。
私自身はどちらかと言うと根性論よりも科学的なアプローチの方が好みなのだが、この本や年配者のお話を総合すると、どうもそれだけでは越えられないハードルがあるのではないかという気がしてくる。
『スポーツ』というカタカナ言葉だとどうしてもスマートなイメージが先行してしまうのだが、往年の大選手達は自分たちのやっている競技に対して、いわゆる『スポーツ』という言葉で表現される以上のものを表現しようとしていたのではないかと感じられる。
昔の柔道などは特にそうだろう。
野球にしても、川上や中西、長島、王と稲尾、金田、村山などの対決は、武士の真剣勝負のような気持ちで戦っていたのではないかと思う。
瀬古にしても、中村監督が『マラソンは芸術です』と言っているように、その精神面を非常に重視していたはずだ。
今の選手が種目に関わらず全般的に小粒に見えるのは、このあたりが軽視されているからではないかと感じてしまう。
まぁ、自分自身とはかけ離れた異次元の世界の話ではあるが、たまにこういう文章に出会うと大いに刺激を受ける。
今さら血を吐くような練習をやりたいとは思わないが、ロングトレイルのレースなどで、幻覚を見るくらいのところまで自分を追い込んでみたいという気持ちはまだ少なからずあるのだ。

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