鳴子温泉から秋田へ

6/28(土)は新庄から奥羽本線で秋田に向かう。

陸羽東線は昨年7月の大雨の影響で、鳴子温泉から新庄までは代行バスでの運行になっている。

9時前のバスで新庄に向かう。

出発時は10人くらいの乗客だったが、途中でどんどん乗客が増えてきた。まれに途中で下車する人もいた。実は地元の人たちにとっては大切な生活路線なのだ。

わりと混雑した状態になって、10時40分くらいに新庄駅に到着した。新庄駅は新幹線が来ているだけあって立派な建物だった。

山形盆地を北上して1878年7月に新庄に到着したイザベラ・バードは、新庄のことを「みすぼらしい町(a wretched place)と書いている。

戊辰戦争で城下が焼き払われた新庄の戦いから10年くらいなので、まだその余韻が残っていたのであろう。

次の電車まで30分くらいだったので街には出なかったが、駅のコンビニでお昼用のサンドイッチを買った。

次の電車でまずは院内に向かう。

バードは金山を通っているが、奥羽本線は真室川沿いで院内に向かう。

院内で秋田行きに乗り換えて飯詰で下車した。

バードは横手の北にある六郷という集落で、裕福な商人の葬儀に参列する機会を得た。葬儀が執り行われたお寺の名前は記していないが、記述内容から推測すると本覚寺に違いないとのこと。

ちょうど今回の旅のルートの途中なので、下車してこのお寺を訪ねてみようと思った。

駅から片道約4km。次の電車まで2時間少々なので、頑張って歩けば何とか往復できそう。

帽子をかぶってサングラスをして、単調な車道を淡々と歩く。

駅から45分くらいで本覚寺に到着した。

近年に改築されているようで立派な建物である。

本堂からはお経の声が聞こえてきた。

バードは茶屋で日本の着物を借りて、頭巾をかぶって参列したため、外国人とは気づかれずにすんだ。

葬儀のことは詳細に記述しており、「六郷のお寺は非常に美しい」と記している。

時間に余裕があるので帰りはあまり焦らずに同じ道を戻った。上部に雲のかかった鳥海山が正面に見えた。

そして次の電車で二駅先の神宮寺でまた途中下車。

バードはここから船で雄物川を下って秋田(その当時は久保田)に向かっている。

次の電車は2時間後と思っていたのだが、駅の時刻表を見たら1時間後に秋田行きがあった。雄物川まで片道1.5kmくらいなので1時間あれば往復できそうだ。

駅から15分ほどで川の堤防に出た。

河川敷の大きなグラウンドを抜けて、雄物川のすぐそばまで行った。

列車や車などの陸上交通が発達するまでは、船は最重要の交通機関だった。バードも「陸路だったら2日の長旅になったところを、わずか9時間が走破できた」と書いている。

今日、最後の電車で秋田へ。

午後5時過ぎに秋田駅に到着した。ここも立派な駅だが、甲府、郡山、仙台と、どこも同じ印象。どこに行ってもミニ東京ばかりだ。

まずはホテルにチェックイン。

ここは老夫婦とアルバイトで営業しているように見える小ぢんまりしたホテル。

私はホテルに泊まる時はいつもネットの予約サイトで予約するのだが、予約の際に住所、氏名などの個人情報を提供してるにもかかわらず、ほとんどのホテルでチェックイン時にもう一度住所氏名等を書かされる。

なぜこんな手間なことをしなければならないのかいつも不愉快に感じていて、こういうのが日本がデジタル化が遅れていると言われる一つの例ではないかと感じているのだが、今回の旅で唯一、このホテルだけがそういう二度手間をされなくて済んだ。

どう見ても顧客データをデジタル管理しているであろうと思われる大手のチェーンでもほとんど二度手間やらされるのに、こんな小さなホテルがそうではないというのはちょっと不思議な感じがするが、これまでの記憶でも意外と小規模の宿泊施設の方が二度手間やらされない傾向にあるような気がする。

一息ついてから夕食に出た。

せっかく秋田に来たので地元の料理を食べたいと思って、ここまで来る時にそういうタイプの店に目をつけておいた。ただ、土曜日の夜なので一人で入れるかどうか心配だったのだが、意外と店は混んでいなくてすんなり入れた。

今日はわりと歩いたので、ビールのあとには地酒でも楽しもうと思って、きりたんぽなどの地元料理のセットものを注文した。

しかし出てきた料理は非常に貧弱なものだった。がっかりして酒は飲まずに店を出た。

なぜこんなに空いていたのかよくわかった。おそらく地元の人は知っているから入らないのだろう。

何となく、こういう大きな町の方が質の悪い店が多いような気がする。

郡山から鳴子温泉へ

6/27(金)は鳴子温泉まで。

時間に余裕があるので仙台で時間潰ししようと思って、8時42分の電車で郡山を出て、福島と白石で乗り継いだ。

仙台には11時過ぎに到着した。駅ビルは巨大。

次に電車まで1時間半ほどあるので、仙台市歴史民俗資料館にでも行ってみようと思った。

駅前のメインストリートを歩いて榴岡(つつじがおか)公園へ。

大きな公園で、資料館は入った場所のほぼ反対側にあった。

旧陸軍の兵舎だった建物。

しかしすでに次の電車まで1時間くらいしかなかったので、入るのは諦めて戻った。

何とか昼食はすませたいと思って駅のそばのフードコートでまぐろねぎトロ丼をかきこんで、発車の数分前に小牛田(こごた)行きの電車に乗り込んだ。

電車はすでに満席状態だったが、二駅くらいでかなりの人が降りて、ほどなく座ることができた。

これまで上野からずっと東北本線で来たが、小牛田で陸羽東線に乗り換える。

最初は乗客は少なかったが、古川駅で東北新幹線と接続しているので、ここでたくさんのお客さんが乗り込んできた。

みんな終着の鳴子温泉まで行くのだろうと思っていたが、意外と途中の駅で降りるひとがいた。

鳴子温泉には午後3時過ぎに到着した。

鳴子温泉は2年前に来た

この時の印象がわりと良かったので、今回はぜひとももう一度ここで泊まりたいと思った。

まずは前回は訪れなかった温泉神社に行ってみる。

奈良時代からある温泉で、神社も式内社で格式が高い。

本殿。

少し戻って、ホテルにチェックイン。前回も泊まったリゾートホテル。

ホテルのすぐそばにある共同浴場のタダ券がもらえたので、一息ついてから行ってみた。

ここ「滝の湯」は湯浴みするだけのところで、小ぶりの浴槽が二つあるだけ。お湯は濁った濃厚な硫黄泉で気持ちよかったが、いささか熱かった。

ホテルに戻ってから夕食前にさらにもう一度風呂に行った。

食事はバイキングで、前回はアルコールもフリーだったが今回はアルコールは別料金になっていた。

満腹感がおさまったらさらにもうひと風呂。

前回もそうだったが、こういうホテルにしてはめずらしくWiFiのサービスが無い。

郡山へ

6/26(木)は甲府から福島県の郡山まで行く。郡山には特に目的があるわけではなく、普通列車を乗り継いで行くのに時間がちょうど良かったから。

前日にコンビニで買っておいたパンと牛乳、そしてコーヒーの朝食を取って、8時前の甲府発高尾行きの列車に乗り込んだ。

1時間半ほどで高尾に到着して、ここで東京行きの特別快速に乗り換える。

出発時点で満席になった。

通勤通学の時間帯は過ぎているのだが、関西での通勤ラッシュなみの混み方だった。

新宿から湘南新宿ラインで宇都宮に向かえばだいぶ時間短縮できるのだが、太宰は上野から東北本線に乗っているので、その経路を辿ることにする。

なつかしの母校(東京理科大学)。建物は50年前とは様変わりしている。

1時間ほどで東京駅に到着した。東京駅の構内はまるで百貨店のよう。昼食用におにぎりを買った。

東北本線で宇都宮へ。

2時間かかってようやく宇都宮に着いた。

すでに1時を少し過ぎているのだが、わりと乗客が多かったのでおにぎりを食べるのははばかられた。

次の黒磯行きは北に向かうのでおそらく空いているだろうと思っていたら、何と高校生の大群で大混雑。何でこんな時間にこんなにたくさんの高校生が?

そのうちにどこかの駅でどさっと降りていくのだろうと思っていたが、実は高校は複数あって、少しずつ降りて行くという状態だった。

5駅くらい行ったところで何とか座れたが、終着の黒磯まで乗っていた高校生もいたし、途中の駅で乗ってくる高校生もいた。何でこんな時間に?

この路線は避暑地の那須高原のそばを通っていて、まさかこんな場所に高校がいくつもあるとは思わなかった。

黒磯には2時過ぎに着いた。乗り換え時間が小一時間あるので、駅の待合室でようやくおにぎりにありついた。

そして白河へ向かう。今度は空いていた。

白河と言えばやはり「白河の関」が有名。奈良時代から重要な関として位置付けられていたが、現代人にとってはやはり高校野球だろう。

2022年の夏の大会で仙台育英高校が優勝するまで、東北勢は白河の関を越えられないと言われてきた。東北を飛び越して北海道の高校は何度か優勝しているのだが。

その白河で今日最後の列車の郡山行きに乗り換える。

午後4時半にようやく郡山駅に到着した。甲府から360kmほどの列車旅だった。

駅の近くのホテルにチェックイン。

今日は電車に乗りっぱなしでまったく運動していないので、夕食は駅のフードコートでラーメンと小どんぶりのセットで簡単に済ませた。喜多方ラーメンということだったが私はそれほどラーメン通ではないので、違いはあまりよくわからなかった。

甲府へ

太宰治は戦時中、東京の三鷹の借家で暮らしていた。

次第に空襲が激しくなり、妻子は奥さんの実家の甲府に疎開したが、三鷹のあたりも空襲が激しくなってきたため、本人も甲府に疎開することになった。

しかしその甲府にも米軍機がやってきて、疎開先の家が空襲の被害にあって住む家が無くなり、しばらく奥さんの親戚の家などを転々として過ごしたが、そんな生活をいつまでも続けるわけにはいかず、致し方なく太宰の生まれ故郷の津軽に一家で疎開することにした。

その時のことが「たずねびと」という作品に書かれている。

ここでの出来事はおそらく創作だと思われるが、記述されている津軽への道のりは真実だと思う。

その当時は上野から青森までの急行列車というのが運行されていたのだが、その頃の電車の混雑ぶりは殺人的で、小さな子供を二人連れた家族連れが乗り込めるような状態ではなかった。

やむなく途中までの普通列車を乗り継いで仙台の先の小牛田(こごた)までたどり着いたのだが、ここに至る途中での出来事がこの作品の舞台になっている。

ここまでは東北本線でやってきたのだが、青森の方も空襲で、このまま東北本線で行っても青森まで到達できるかどうかわからない状況だったので、ここから陸羽東線で山形の新庄に出て、そこから奥羽本線で秋田を経由して東能代へ。

ここで五能線に乗り換えて五所川原まで行って、そこから津軽鉄道で金木に至るという経路で実家を目指すことにした。

この作品を読んだのはわりと最近のことなのだが、読み終わってからこの経路を自分も電車で辿ってみたいという気持ちがにわかに湧いてきた。それも新幹線や特急は使わずに普通列車で。

太宰は4日かけて甲府から津軽まで行ったのだが、私は甲府から5日かけて行く行程にした。出発地点の甲府までは新幹線と特急で行く。

ということで6/25(水)に京都駅から新幹線に乗って、まずは名古屋駅にやってきた。

少し早めに着いて、きしめんを駅の立ち食いで食べた。

そして「しなの」で塩尻へ。

電車旅の特権でビールを買って乗り込んだのだが、飲んだ後の気分は今ひとつだった。

塩尻では乗り換え時間が3分しかないので心配だったが、何とか「あずさ」に乗り込むことができた。

「あずさ」ではめずらしく車内販売が回ってきた。まだ車内販売が残っている列車があるのだ。

韮崎あたりでは一時強い雨だったが、甲府に近づくにつれて止んできた。

甲府には午後3時頃に到着した。甲府に来るのは2年ぶり

コンビニのコーヒーを飲んで、武田信玄にご挨拶。

時間があるので舞鶴城へ。当然、信玄のお城と思っていたが、実は武田家滅亡後の秀吉政権の時代の築城とのこと。

鉄門(くろがねもん)。

天守台。

南の方を望むが富士山は見えない。

金峰山や国師も見えず。暑くてたまらず、ベンチに腰掛けて休憩した。

稲荷櫓はちょうど入り口が閉門されてしまった。

そしてホテルにチェックイン。

一息ついてから夕食は駅のそばまで戻って、前回行ったほうとうの店に行った。

「ほうとう」は「きしめん」の太いバージョンという感じで、お昼とかぶってしまった。

前回も苦労して完食したのだが、今日はビールを飲まなかったにもかかわらず完食できなかった。

天河大辨財天社

5/23(金)はいよいよ奥駆道南部に向かう。

白谷トンネル入り口手前の行仙岳登山口のそばのスペースに車を停めて、6時頃に出発した。

最初は急な階段。

さっそく階段を登り始めたが、出だしから体調が非常に悪い。脚が重くて力が入らない。

昨年末に心電図の検査で不整脈が発覚した。ここ1〜2年、たまに身体が重くてだるいということがあったが、どうも不整脈が原因だったもよう。1月の北海道も今ひとつ気力が出なかったが、これも不整脈が原因だったのかも知れない。

医者から「カテーテル・アブレーション」という治療を勧められて、3月の末に施術を受けた。

これでもう安心できるのかと思いきや、残念ながらその後の体調は今ひとつ芳しくない。

日常生活においては改善しているように思われるが、運動時は相変わらず身体が重くて、長年の日課だったジョギングもこのところ散歩に切り替えている。

講座の仕事は問題なくこなせているのだが、今日はいきなり急な階段登りだったせいか非常に調子が悪い。

階段が終わってなだらかな登りになったが、それでも復調の兆しが感じられない。

せめて行仙岳まででも思ったが標高差が400mくらいあるので、この調子ではとても辿り着けそうにない。

出発してまだ10分も経たないくらいだが、無理して進んでさらに体調が悪化したら下れなくなってしまう。携帯は圏外だし、平日のこんな場所では人に出会う可能性は低い。

また来ようと思えばいつでも来られるくらいの場所なので、今日は諦めることにした。

車に戻って後片付けをしてもまだ7時前。このまま往路を戻るだけではあまりにも虚しいので、ひとまず十津川村の方に向かうことにした。

もし対向車が来たらどうしようかとハラハラしながら1時間以上走って、ようやく十津川村まで辿り着いた。

できれば温泉に入りたかったのだが、さすがにこの時間では空いているところが見つからないので、とりあえず北に向かう。

このまま北上すると五條市に出るのだが、ふと思いついて天川村の天河神社(天河大辨財天社)に行ってみようと思った。

途中から天川村に向かう道に入ったが、これもまた離合不可能な狭い道が延々と続いた。何度か対向車に出会ったが何とかすれ違うことができた。

9時過ぎにようやく天河神社に到着した。平日の午前中だが、そこそこの参拝客がおられた。神社の職員も忙しそうだった。

石段を上がって、本殿。

反対側に降りると役行者堂。

すぐそばに天石。

戻って、本殿の少し下には五社殿。

実はここは南朝とのつながりが濃いらしいのだが、そのことは帰ってから知った。残念。

行動食を食べたりして時間潰しをして、橿原市でようやく温泉に入ることができた。

地下から汲み上げた炭酸泉で、浸かっていると肌に小さな泡がついてくる。漢方釜風呂というのがあって入ってみたが、薬草の香りのするサウナだった。寝そべると背中にお湯のながれる寝湯もあって、なかなか楽しめる温泉だった。

平日の午前中だというのに結構な数の入浴客がいて、しかも若い人たちもそこそこいたのが意外だった。

あとはのんびりと帰るだけでした。

金剛寺、瀧川寺

大峰奥駆道の半分以上は歩いていると思うが、南側に大きな未踏エリアがある。

奥守岳から笠捨山までがそれで、何度か足を踏み入れようとしたものの、未だに手を触れることができないでいる。

とにかく交通が不便で、周回ルートもとれないので、テント泊にするとアプローチと下山後が大変。往復するには今となっては距離が長過ぎる。

しかしどうにも諦めがつかず、何とかならないだろうかと考えて、引き出した答えは「白谷トンネルから行仙岳に上がって北に向かう。できれば奥守岳まで行って戻ってくる」というもの。

往復で25kmほどになるが標高差はあまり大きくないので、12時間くらいかければ行けるのではないかと考えた。

ただし早出しなければならないので前日中に麓まで行っておかなければならない。

ということで5/22(木)の午後に家を出た。天気予報では翌週はずっと雨模様なので、翌日の晴れがラストチャンスだった。

こういう機会に訪れておきたい場所が二ヶ所ある。

一つ目は川上村神之谷の金剛寺で、以前に一度訪れているが、ぜひ再訪したいと思っていた。

前回来た時は誰にも会わず、ひと気のまったくない雰囲気だった。今日も平日なので誰もいないだろうと思っていたが、到着したら車が停まっていて、3人の人がおられた。みんな首から名札を提げていて、いかにも仕事という感じ。何の仕事だろう。向こうもちょっと意外な感じでこちらを見ている。

車を停めてお寺に向かう時に「こんにちは」と声をかけられたので、同じように返事して石段を上がったら、今度は上にある管理のための建物のそばに車が停まっていて、何か荷物を運んでいる人がおられた。またまたびっくり。

向こうは私のことに気が付いていないようなので、だまってさらに上の石段を上がった。

本堂はうっすらと記憶がある。

靴を脱いで扉の前まで行ってみたがやはり戸は閉められていた。しかし格子の隙間から覗くことはできた。

役行者が大峰山から投げたという地蔵菩薩はどれ? 真ん中にあるのは鏡のように見えるけれど。

本堂の右には自天親王神社。

二つの祠が少し角度のついた位置で並んでいる。

左が八坂神社(素戔嗚尊)で右が本殿。本殿は自天王と忠義王(南朝皇胤の兄弟。自天王が兄)を祀っている。両宮は1457年、長禄の変において赤松家の賊によって殺害された。

禁闕の変(1443年)において三種の神器の二つが奪われたが、その時に宝剣は奪い返された。しかし神璽はそのままで行方不明になったが、その後、このあたりに隠されているということがわかって、赤松家がそれを奪い返すための武力行動を起こした。

本堂の左には河野宮(忠義王)の陵がある。長年、川上村では自天王の墓としていたのだが、明治時代に宮内庁が忠義王の墓に治定した。

しかしここに上がる石段のたもとにはこんな石が。

「南帝自天皇陵」と読める。右は「後亀山天皇玄孫(おそらく)」。

そばには尊秀王の墓。

この写真の「尊」の字体はパソコンには登録されていない。

尊秀王は後南朝の指導者だが詳細は不明。禁闕の変の首謀者の一人で、この時に殺されているらしいが詳細は不明。

尊秀王とは自天王のことという説もあるが、そうではないという説の方が有力。

長禄の変の時、忠義王はこのあたりに潜んでいた模様。

駐車場所に戻ったらさっきの人たちはいなくなっていた。

お次はさらに30分ほど南に向かって、上北山村小橡(ことじ)の瀧川寺へ。ここは初めて。

明治時代に宮内庁によってこちらが自天王の墓と治定された。

「北山宮」というのは自天王のこと。

山門の横にも。

山門をくぐると正面に本堂。

本堂の向かいには神社。これが「北山宮」?

本堂の横に宮内庁の案内板。

石段の前に簡単な柵が置かれていたけれど、さほど厳しく立ち入りを禁じているような感じではなかったので、石段を上がってみた。

本堂に戻って扉に手をかけてみたら開けることができた。中に入ってみるとかすかに線香の香りが残っている。

お札が置かれていたので賽銭箱に千円入れてもらってきた。

長禄の変の際、自天王はこのあたりに潜んでいた模様。神璽が隠されていたのもこのあたり?

となると三之公のカクシ平は何? ここにあったお墓は「尊義親王」と書かれていた。

なお、後南朝の歴史に関しては不明な部分が多く、ここに書いたことが必ずしも史実として確定しているわけではありません。

ここに述べたような事件があったことはほぼ事実だが、当事者が誰であったかということでは不明な点が多い。

このあと、下北山スポーツ公園の駐車場に車を停めた。小さいながらもきれいなトイレがあって快適でした。

よく知られているのか、翌朝にはたくさんの車が停まっていた。

松本峠、鬼ヶ城

4/25(金)は伊勢路峠歩きの最終日で、松本峠に向かう。

7時半にホテルを出て、熊野市駅前を通ってしばらく車道を行く。ところどころに案内板がある。

出発して15分くらいで松本峠への分岐。

すぐに石畳の登り。

このあとまた車道に出たりしたが、その後、登山道になって、出発して30分ほどで松本峠に到着した。

お地蔵さん。江戸時代に間違って鉄砲撃ちに撃たれた傷が足元に残っている。

ここからは南の鬼ヶ城跡に向かう。

展望場所から七里御浜を見下ろす。

ほどなく鬼ヶ城跡。

ここには三角点がある(153.5m )。

鬼の見晴し台から太平洋を望む。

ここから東の方に15分ほど一気に下って駐車場に出た。

あとは鬼ヶ城観光。

鬼ヶ城センターはまだ開いていないのですぐに散策路に入る。

まずはゲートでお出迎え。

「千畳敷」。

その後も名称のプレートが次々と出てきたが、パンフレットなどを見ながらでないとどれを指しているのかよくわからない。

平日の早い時間帯なので空いているが、休日の昼間だったらすれ違いに苦労するかも。

「蜂の巣」はよくわかります。

「波切不動」は二つの突起が不動尊のように見えるから。

40分くらいで遊歩道散策は終わった。

ここからすぐに七里御浜に出られるのだが、すぐのところに小さな川があって、これが渡れるのかどうかわからないので、そのまま車道を進む。

国道の信号を渡って防波堤に上がる。

浜辺を歩いてみたが、あまりにも歩きにくくて早々に防波堤に戻った。

しばらく防波堤を歩いてから獅子巌へ。

足元にハマヒルガオ。

ここで七里御浜散策はお終いにして駅に戻る。

10時15分頃に熊野市駅まで戻ってきた。そして駅前の店でお土産を購入した。

当初はこのあたりで昼食をとってから午後1時前の普通列車で新宮まで行くつもりだったが、11時過ぎの特急で新宮まで行って、新宮で昼食を取ることにした。自由席特急券330円なり。

がら空きの特急で新宮には11時半頃に到着した。

駅前の寿司店でちらしとビール。

「熊野ビール」という地ビールを注文した。特に特徴もない普通の味だったが、ラベルを見たら黄桜の製造だった。これが地ビール?

上の写真のベンチで時間潰ししてからコンビニのコーヒーを飲んで、1時半頃の特急で大阪に向かった。

楽しい3日間だった。

神威岬、小樽、朝里川温泉

1/29(水)はニセコに別れを告げて小樽近くの朝里川のホテルに向かう。時間に余裕はあるけれど何となくスキーはもういいかなという感じで、おまけに天気予報もかなり悪かったので、のんびりの移動日にすることにした。

昨年の6月に北見神威岬を訪れたが、北海道で神威岬と言えば本家は積丹半島の方にある。

朝方は予想外に晴れていた。ロッジの前からニセコアンヌプリ。

神威岬に向かって車を走らせているうちに天気が崩れてきて、2時間ほど走って神威岬に着いた時には完全に雪になっていた。

駐車場には店があって、車が1台停まっているが、とても営業しているようには見えない。

オーバーシューズを履いて、スパイクを着用して外に出た。

案内板があったが、写真を撮っただけで実はしっかり見ていなかった。

目の前の階段を上がる。踏み跡は皆無。

上がるにつれて風が強くなってきたが、数分で展望場所に出た。

この映像の最初と最後に映っているのが神威岬。

風雪で厳しい天候なのだが、先日の三段山の風に比べたらはるかにマシ。

ところがこのタイミングでフェリー会社から電話がかかっていた。明日の夜のフェリーで帰る予定をしていたのだが、その便が欠航になるとのこと。

その翌日も欠航で、代替便として今日の深夜(翌早朝)に苫小牧から舞鶴への便を運行するとのこと。

今日は朝里川温泉のホテルを予約しているので、それだと深夜にチェックアウトしなければならないのだが、深夜のチェクアウトが可能であればそうするしかない。

ホテルに確認したら出られるようにしてくれるとのことだったので、その代替便で帰ることにした。

そんなことを風雪の中でやりとりしてから少し進むと何やらよくわからない構造物があった。

説明板の雪を払って読んでみると、戦争前に設置された電波探知塔とのこと。

さらに進むと神威岬の先端部に向かうゲートに来たが、冬はここは閉鎖されている。

覗き込んでみると、

ここはぜひ無雪期に再訪したいと思う。

その後、余市に向かった。道の駅があるのでそこで昼食でもと思ったのだが、残念ながら食事のできるところは開いていなかった。

小樽に向かう途中でラーメンを食べて、時間潰しに小樽市総合博物館へ。

ところがこちらの入り口は冬場は閉まっており、開いている方へ行くにはとんでもなく大回りしなければならないので、入るのを諦めた。

そして早めに朝里川温泉ホテルにチェックインした。

すぐそばには朝里川温泉スキー場のゲレンデが見える。

チェックイン後に温泉に入って、ホテルのレストランで夕食をとってからまた遅くに温泉に入って、夜中の12時前にチェックアウトした。チェックインしてから数時間の間に10cm以上の雪が積もっていた。

2時前に苫小牧のフェリーターミナルに到着。

無事、3時頃に出港した。

北の方では海はさほど荒れていなかったが、南下するにつれて揺れが激しくなってきて、めずらしく船酔いした。

ほぼ24時間かかって、舞鶴には翌日の午前3時に到着した。

藻岩山スキー場

1/26(日)は富良野に別れを告げてニセコに向かう。

下道をのんびりゆっくり走ろうかと思ったりもしたが、やはり貧乏性のせいで何かやらずにはいられない気持ちの方が勝って、藻岩山スキー場で少し滑っていくことにした。

雪が少なくてすいすい走れて、一部高速を走って11時前にはスキー場に到着した。

ここはスキーヤーオンリーといううれしいスキー場で、リフト券もシニア5時間で2800円なり。日曜日だが小学生のスクールの団体がたくさんいた。

リフトは数基。こんな時期なのに雪不足でいくつかのコースは閉鎖されている。

一番上まで上がると上部に展望台が見える。ここは4年前の夏に訪れた。

札幌市内も望める。

真ん中は恵庭岳。

日曜日だがリフト待ち時間はほぼゼロ。昼食休憩をはさんで3時前まで滑ってからニセコに向かった。

倶知安のマックスバリュで食料を購入してから定番のニセコ駅前の綺羅乃湯へ。

地元の人がほとんどという感じだった富良野の温泉とは違って、ここの客は大半が欧米系の外国人だった。

ニセコ駅は電飾されていた。

そして今日から3泊する「ルート66ニセコ」へ。

✳︎翌朝に撮ったもの

一棟借りのコテージで、自炊設備が整っている。ホテルよりも安かった。

三段山

1/25(土)は三段山に向かうことにした。ここは5年前の3月に初めての北海道での山スキーデビューをした思い出の山。

9時過ぎに登山口の吹上温泉白銀荘に到着した時にはすでに駐車スペースはほぼ満杯状態だった。

準備を整えて9時半過ぎに出発した。この風景は記憶がある。

前回来た時はコロナの時期で人が少なくて、特に外国観光客は入国できない時だったのだが、今回は北海道ブームで外国人パーティがたくさんいた。ほとんど欧米系の人たち。

晴れてはいないもののこのあたりでは穏やかな天気だったが、樹林帯を越えると冷たい強風が吹き荒れてきた。昨日の旭岳もこんな感じだったのだろう。

バラクラバで口や鼻も覆っているが、ヘルメットの内側にかぶる薄い生地なので顔面凍傷になりそう。

はるか前方には先に進んでいるパーティが少し見えたが、それまで近くにいたたくさんのパーティはぜんぜん見かけなくなった。

2時間ほど登って、標高1500mあたりで地形の関係で少し風が避けられる場所があったが、少し進むとまた強風に襲われた。この先はずっと拭き晒しになりそう。

下るにはシールを外したりブーツとビンディングをセッティングし直したりしなければならないので、今日はこのあたりが潮時かなと思った。

下りでは、強風エリアでは誰も出会わなかった。後続のパーティはみんな下りてしまったのだろうか。

樹林帯まで下りると雰囲気も和らいで余裕が出てきた。

さらに下ると、登ってくるいくつかのパーティとすれ違った。

12時20分、白銀荘まで下りてきた。

車の中で行動食を食べたりしてゆっくりしたが、まだまだ時間があるので、昨年の6月に訪れた美瑛の「青い池」の冬景色を見に行ってみようと思った。

この季節でもそれなりの観光客だった。大半は中国や東南アジア系の人たち。なぜかこういう場所では欧米系の観光客はあまり見かけない。

青い池ではなくて「白い池」でした。

宿の前からは十勝の山々が眺められた。どれがどの山かはよくわからず。