甲府へ

太宰治は戦時中、東京の三鷹の借家で暮らしていた。

次第に空襲が激しくなり、妻子は奥さんの実家の甲府に疎開したが、三鷹のあたりも空襲が激しくなってきたため、本人も甲府に疎開することになった。

しかしその甲府にも米軍機がやってきて、疎開先の家が空襲の被害にあって住む家が無くなり、しばらく奥さんの親戚の家などを転々として過ごしたが、そんな生活をいつまでも続けるわけにはいかず、致し方なく太宰の生まれ故郷の津軽に一家で疎開することにした。

その時のことが「たずねびと」という作品に書かれている。

ここでの出来事はおそらく創作だと思われるが、記述されている津軽への道のりは真実だと思う。

その当時は上野から青森までの急行列車というのが運行されていたのだが、その頃の電車の混雑ぶりは殺人的で、小さな子供を二人連れた家族連れが乗り込めるような状態ではなかった。

やむなく途中までの普通列車を乗り継いで仙台の先の小牛田(こごた)までたどり着いたのだが、ここに至る途中での出来事がこの作品の舞台になっている。

ここまでは東北本線でやってきたのだが、青森の方も空襲で、このまま東北本線で行っても青森まで到達できるかどうかわからない状況だったので、ここから陸羽東線で山形の新庄に出て、そこから奥羽本線で秋田を経由して東能代へ。

ここで五能線に乗り換えて五所川原まで行って、そこから津軽鉄道で金木に至るという経路で実家を目指すことにした。

この作品を読んだのはわりと最近のことなのだが、読み終わってからこの経路を自分も電車で辿ってみたいという気持ちがにわかに湧いてきた。それも新幹線や特急は使わずに普通列車で。

太宰は4日かけて甲府から津軽まで行ったのだが、私は甲府から5日かけて行く行程にした。出発地点の甲府までは新幹線と特急で行く。

ということで6/25(水)に京都駅から新幹線に乗って、まずは名古屋駅にやってきた。

少し早めに着いて、きしめんを駅の立ち食いで食べた。

そして「しなの」で塩尻へ。

電車旅の特権でビールを買って乗り込んだのだが、飲んだ後の気分は今ひとつだった。

塩尻では乗り換え時間が3分しかないので心配だったが、何とか「あずさ」に乗り込むことができた。

「あずさ」ではめずらしく車内販売が回ってきた。まだ車内販売が残っている列車があるのだ。

韮崎あたりでは一時強い雨だったが、甲府に近づくにつれて止んできた。

甲府には午後3時頃に到着した。甲府に来るのは2年ぶり

コンビニのコーヒーを飲んで、武田信玄にご挨拶。

時間があるので舞鶴城へ。当然、信玄のお城と思っていたが、実は武田家滅亡後の秀吉政権の時代の築城とのこと。

鉄門(くろがねもん)。

天守台。

南の方を望むが富士山は見えない。

金峰山や国師も見えず。暑くてたまらず、ベンチに腰掛けて休憩した。

稲荷櫓はちょうど入り口が閉門されてしまった。

そしてホテルにチェックイン。

一息ついてから夕食は駅のそばまで戻って、前回行ったほうとうの店に行った。

「ほうとう」は「きしめん」の太いバージョンという感じで、お昼とかぶってしまった。

前回も苦労して完食したのだが、今日はビールを飲まなかったにもかかわらず完食できなかった。

天河大辨財天社

5/23(金)はいよいよ奥駆道南部に向かう。

白谷トンネル入り口手前の行仙岳登山口のそばのスペースに車を停めて、6時頃に出発した。

最初は急な階段。

さっそく階段を登り始めたが、出だしから体調が非常に悪い。脚が重くて力が入らない。

昨年末に心電図の検査で不整脈が発覚した。ここ1〜2年、たまに身体が重くてだるいということがあったが、どうも不整脈が原因だったもよう。1月の北海道も今ひとつ気力が出なかったが、これも不整脈が原因だったのかも知れない。

医者から「カテーテル・アブレーション」という治療を勧められて、3月の末に施術を受けた。

これでもう安心できるのかと思いきや、残念ながらその後の体調は今ひとつ芳しくない。

日常生活においては改善しているように思われるが、運動時は相変わらず身体が重くて、長年の日課だったジョギングもこのところ散歩に切り替えている。

講座の仕事は問題なくこなせているのだが、今日はいきなり急な階段登りだったせいか非常に調子が悪い。

階段が終わってなだらかな登りになったが、それでも復調の兆しが感じられない。

せめて行仙岳まででも思ったが標高差が400mくらいあるので、この調子ではとても辿り着けそうにない。

出発してまだ10分も経たないくらいだが、無理して進んでさらに体調が悪化したら下れなくなってしまう。携帯は圏外だし、平日のこんな場所では人に出会う可能性は低い。

また来ようと思えばいつでも来られるくらいの場所なので、今日は諦めることにした。

車に戻って後片付けをしてもまだ7時前。このまま往路を戻るだけではあまりにも虚しいので、ひとまず十津川村の方に向かうことにした。

もし対向車が来たらどうしようかとハラハラしながら1時間以上走って、ようやく十津川村まで辿り着いた。

できれば温泉に入りたかったのだが、さすがにこの時間では空いているところが見つからないので、とりあえず北に向かう。

このまま北上すると五條市に出るのだが、ふと思いついて天川村の天河神社(天河大辨財天社)に行ってみようと思った。

途中から天川村に向かう道に入ったが、これもまた離合不可能な狭い道が延々と続いた。何度か対向車に出会ったが何とかすれ違うことができた。

9時過ぎにようやく天河神社に到着した。平日の午前中だが、そこそこの参拝客がおられた。神社の職員も忙しそうだった。

石段を上がって、本殿。

反対側に降りると役行者堂。

すぐそばに天石。

戻って、本殿の少し下には五社殿。

実はここは南朝とのつながりが濃いらしいのだが、そのことは帰ってから知った。残念。

行動食を食べたりして時間潰しをして、橿原市でようやく温泉に入ることができた。

地下から汲み上げた炭酸泉で、浸かっていると肌に小さな泡がついてくる。漢方釜風呂というのがあって入ってみたが、薬草の香りのするサウナだった。寝そべると背中にお湯のながれる寝湯もあって、なかなか楽しめる温泉だった。

平日の午前中だというのに結構な数の入浴客がいて、しかも若い人たちもそこそこいたのが意外だった。

あとはのんびりと帰るだけでした。

金剛寺、瀧川寺

大峰奥駆道の半分以上は歩いていると思うが、南側に大きな未踏エリアがある。

奥守岳から笠捨山までがそれで、何度か足を踏み入れようとしたものの、未だに手を触れることができないでいる。

とにかく交通が不便で、周回ルートもとれないので、テント泊にするとアプローチと下山後が大変。往復するには今となっては距離が長過ぎる。

しかしどうにも諦めがつかず、何とかならないだろうかと考えて、引き出した答えは「白谷トンネルから行仙岳に上がって北に向かう。できれば奥守岳まで行って戻ってくる」というもの。

往復で25kmほどになるが標高差はあまり大きくないので、12時間くらいかければ行けるのではないかと考えた。

ただし早出しなければならないので前日中に麓まで行っておかなければならない。

ということで5/22(木)の午後に家を出た。天気予報では翌週はずっと雨模様なので、翌日の晴れがラストチャンスだった。

こういう機会に訪れておきたい場所が二ヶ所ある。

一つ目は川上村神之谷の金剛寺で、以前に一度訪れているが、ぜひ再訪したいと思っていた。

前回来た時は誰にも会わず、ひと気のまったくない雰囲気だった。今日も平日なので誰もいないだろうと思っていたが、到着したら車が停まっていて、3人の人がおられた。みんな首から名札を提げていて、いかにも仕事という感じ。何の仕事だろう。向こうもちょっと意外な感じでこちらを見ている。

車を停めてお寺に向かう時に「こんにちは」と声をかけられたので、同じように返事して石段を上がったら、今度は上にある管理のための建物のそばに車が停まっていて、何か荷物を運んでいる人がおられた。またまたびっくり。

向こうは私のことに気が付いていないようなので、だまってさらに上の石段を上がった。

本堂はうっすらと記憶がある。

靴を脱いで扉の前まで行ってみたがやはり戸は閉められていた。しかし格子の隙間から覗くことはできた。

役行者が大峰山から投げたという地蔵菩薩はどれ? 真ん中にあるのは鏡のように見えるけれど。

本堂の右には自天親王神社。

二つの祠が少し角度のついた位置で並んでいる。

左が八坂神社(素戔嗚尊)で右が本殿。本殿は自天王と忠義王(南朝皇胤の兄弟。自天王が兄)を祀っている。両宮は1457年、長禄の変において赤松家の賊によって殺害された。

禁闕の変(1443年)において三種の神器の二つが奪われたが、その時に宝剣は奪い返された。しかし神璽はそのままで行方不明になったが、その後、このあたりに隠されているということがわかって、赤松家がそれを奪い返すための武力行動を起こした。

本堂の左には河野宮(忠義王)の陵がある。長年、川上村では自天王の墓としていたのだが、明治時代に宮内庁が忠義王の墓に治定した。

しかしここに上がる石段のたもとにはこんな石が。

「南帝自天皇陵」と読める。右は「後亀山天皇玄孫(おそらく)」。

そばには尊秀王の墓。

この写真の「尊」の字体はパソコンには登録されていない。

尊秀王は後南朝の指導者だが詳細は不明。禁闕の変の首謀者の一人で、この時に殺されているらしいが詳細は不明。

尊秀王とは自天王のことという説もあるが、そうではないという説の方が有力。

長禄の変の時、忠義王はこのあたりに潜んでいた模様。

駐車場所に戻ったらさっきの人たちはいなくなっていた。

お次はさらに30分ほど南に向かって、上北山村小橡(ことじ)の瀧川寺へ。ここは初めて。

明治時代に宮内庁によってこちらが自天王の墓と治定された。

「北山宮」というのは自天王のこと。

山門の横にも。

山門をくぐると正面に本堂。

本堂の向かいには神社。これが「北山宮」?

本堂の横に宮内庁の案内板。

石段の前に簡単な柵が置かれていたけれど、さほど厳しく立ち入りを禁じているような感じではなかったので、石段を上がってみた。

本堂に戻って扉に手をかけてみたら開けることができた。中に入ってみるとかすかに線香の香りが残っている。

お札が置かれていたので賽銭箱に千円入れてもらってきた。

長禄の変の際、自天王はこのあたりに潜んでいた模様。神璽が隠されていたのもこのあたり?

となると三之公のカクシ平は何? ここにあったお墓は「尊義親王」と書かれていた。

なお、後南朝の歴史に関しては不明な部分が多く、ここに書いたことが必ずしも史実として確定しているわけではありません。

ここに述べたような事件があったことはほぼ事実だが、当事者が誰であったかということでは不明な点が多い。

このあと、下北山スポーツ公園の駐車場に車を停めた。小さいながらもきれいなトイレがあって快適でした。

よく知られているのか、翌朝にはたくさんの車が停まっていた。

松本峠、鬼ヶ城

4/25(金)は伊勢路峠歩きの最終日で、松本峠に向かう。

7時半にホテルを出て、熊野市駅前を通ってしばらく車道を行く。ところどころに案内板がある。

出発して15分くらいで松本峠への分岐。

すぐに石畳の登り。

このあとまた車道に出たりしたが、その後、登山道になって、出発して30分ほどで松本峠に到着した。

お地蔵さん。江戸時代に間違って鉄砲撃ちに撃たれた傷が足元に残っている。

ここからは南の鬼ヶ城跡に向かう。

展望場所から七里御浜を見下ろす。

ほどなく鬼ヶ城跡。

ここには三角点がある(153.5m )。

鬼の見晴し台から太平洋を望む。

ここから東の方に15分ほど一気に下って駐車場に出た。

あとは鬼ヶ城観光。

鬼ヶ城センターはまだ開いていないのですぐに散策路に入る。

まずはゲートでお出迎え。

「千畳敷」。

その後も名称のプレートが次々と出てきたが、パンフレットなどを見ながらでないとどれを指しているのかよくわからない。

平日の早い時間帯なので空いているが、休日の昼間だったらすれ違いに苦労するかも。

「蜂の巣」はよくわかります。

「波切不動」は二つの突起が不動尊のように見えるから。

40分くらいで遊歩道散策は終わった。

ここからすぐに七里御浜に出られるのだが、すぐのところに小さな川があって、これが渡れるのかどうかわからないので、そのまま車道を進む。

国道の信号を渡って防波堤に上がる。

浜辺を歩いてみたが、あまりにも歩きにくくて早々に防波堤に戻った。

しばらく防波堤を歩いてから獅子巌へ。

足元にハマヒルガオ。

ここで七里御浜散策はお終いにして駅に戻る。

10時15分頃に熊野市駅まで戻ってきた。そして駅前の店でお土産を購入した。

当初はこのあたりで昼食をとってから午後1時前の普通列車で新宮まで行くつもりだったが、11時過ぎの特急で新宮まで行って、新宮で昼食を取ることにした。自由席特急券330円なり。

がら空きの特急で新宮には11時半頃に到着した。

駅前の寿司店でちらしとビール。

「熊野ビール」という地ビールを注文した。特に特徴もない普通の味だったが、ラベルを見たら黄桜の製造だった。これが地ビール?

上の写真のベンチで時間潰ししてからコンビニのコーヒーを飲んで、1時半頃の特急で大阪に向かった。

楽しい3日間だった。

神威岬、小樽、朝里川温泉

1/29(水)はニセコに別れを告げて小樽近くの朝里川のホテルに向かう。時間に余裕はあるけれど何となくスキーはもういいかなという感じで、おまけに天気予報もかなり悪かったので、のんびりの移動日にすることにした。

昨年の6月に北見神威岬を訪れたが、北海道で神威岬と言えば本家は積丹半島の方にある。

朝方は予想外に晴れていた。ロッジの前からニセコアンヌプリ。

神威岬に向かって車を走らせているうちに天気が崩れてきて、2時間ほど走って神威岬に着いた時には完全に雪になっていた。

駐車場には店があって、車が1台停まっているが、とても営業しているようには見えない。

オーバーシューズを履いて、スパイクを着用して外に出た。

案内板があったが、写真を撮っただけで実はしっかり見ていなかった。

目の前の階段を上がる。踏み跡は皆無。

上がるにつれて風が強くなってきたが、数分で展望場所に出た。

この映像の最初と最後に映っているのが神威岬。

風雪で厳しい天候なのだが、先日の三段山の風に比べたらはるかにマシ。

ところがこのタイミングでフェリー会社から電話がかかっていた。明日の夜のフェリーで帰る予定をしていたのだが、その便が欠航になるとのこと。

その翌日も欠航で、代替便として今日の深夜(翌早朝)に苫小牧から舞鶴への便を運行するとのこと。

今日は朝里川温泉のホテルを予約しているので、それだと深夜にチェックアウトしなければならないのだが、深夜のチェクアウトが可能であればそうするしかない。

ホテルに確認したら出られるようにしてくれるとのことだったので、その代替便で帰ることにした。

そんなことを風雪の中でやりとりしてから少し進むと何やらよくわからない構造物があった。

説明板の雪を払って読んでみると、戦争前に設置された電波探知塔とのこと。

さらに進むと神威岬の先端部に向かうゲートに来たが、冬はここは閉鎖されている。

覗き込んでみると、

ここはぜひ無雪期に再訪したいと思う。

その後、余市に向かった。道の駅があるのでそこで昼食でもと思ったのだが、残念ながら食事のできるところは開いていなかった。

小樽に向かう途中でラーメンを食べて、時間潰しに小樽市総合博物館へ。

ところがこちらの入り口は冬場は閉まっており、開いている方へ行くにはとんでもなく大回りしなければならないので、入るのを諦めた。

そして早めに朝里川温泉ホテルにチェックインした。

すぐそばには朝里川温泉スキー場のゲレンデが見える。

チェックイン後に温泉に入って、ホテルのレストランで夕食をとってからまた遅くに温泉に入って、夜中の12時前にチェックアウトした。チェックインしてから数時間の間に10cm以上の雪が積もっていた。

2時前に苫小牧のフェリーターミナルに到着。

無事、3時頃に出港した。

北の方では海はさほど荒れていなかったが、南下するにつれて揺れが激しくなってきて、めずらしく船酔いした。

ほぼ24時間かかって、舞鶴には翌日の午前3時に到着した。

藻岩山スキー場

1/26(日)は富良野に別れを告げてニセコに向かう。

下道をのんびりゆっくり走ろうかと思ったりもしたが、やはり貧乏性のせいで何かやらずにはいられない気持ちの方が勝って、藻岩山スキー場で少し滑っていくことにした。

雪が少なくてすいすい走れて、一部高速を走って11時前にはスキー場に到着した。

ここはスキーヤーオンリーといううれしいスキー場で、リフト券もシニア5時間で2800円なり。日曜日だが小学生のスクールの団体がたくさんいた。

リフトは数基。こんな時期なのに雪不足でいくつかのコースは閉鎖されている。

一番上まで上がると上部に展望台が見える。ここは4年前の夏に訪れた。

札幌市内も望める。

真ん中は恵庭岳。

日曜日だがリフト待ち時間はほぼゼロ。昼食休憩をはさんで3時前まで滑ってからニセコに向かった。

倶知安のマックスバリュで食料を購入してから定番のニセコ駅前の綺羅乃湯へ。

地元の人がほとんどという感じだった富良野の温泉とは違って、ここの客は大半が欧米系の外国人だった。

ニセコ駅は電飾されていた。

そして今日から3泊する「ルート66ニセコ」へ。

✳︎翌朝に撮ったもの

一棟借りのコテージで、自炊設備が整っている。ホテルよりも安かった。

三段山

1/25(土)は三段山に向かうことにした。ここは5年前の3月に初めての北海道での山スキーデビューをした思い出の山。

9時過ぎに登山口の吹上温泉白銀荘に到着した時にはすでに駐車スペースはほぼ満杯状態だった。

準備を整えて9時半過ぎに出発した。この風景は記憶がある。

前回来た時はコロナの時期で人が少なくて、特に外国観光客は入国できない時だったのだが、今回は北海道ブームで外国人パーティがたくさんいた。ほとんど欧米系の人たち。

晴れてはいないもののこのあたりでは穏やかな天気だったが、樹林帯を越えると冷たい強風が吹き荒れてきた。昨日の旭岳もこんな感じだったのだろう。

バラクラバで口や鼻も覆っているが、ヘルメットの内側にかぶる薄い生地なので顔面凍傷になりそう。

はるか前方には先に進んでいるパーティが少し見えたが、それまで近くにいたたくさんのパーティはぜんぜん見かけなくなった。

2時間ほど登って、標高1500mあたりで地形の関係で少し風が避けられる場所があったが、少し進むとまた強風に襲われた。この先はずっと拭き晒しになりそう。

下るにはシールを外したりブーツとビンディングをセッティングし直したりしなければならないので、今日はこのあたりが潮時かなと思った。

下りでは、強風エリアでは誰も出会わなかった。後続のパーティはみんな下りてしまったのだろうか。

樹林帯まで下りると雰囲気も和らいで余裕が出てきた。

さらに下ると、登ってくるいくつかのパーティとすれ違った。

12時20分、白銀荘まで下りてきた。

車の中で行動食を食べたりしてゆっくりしたが、まだまだ時間があるので、昨年の6月に訪れた美瑛の「青い池」の冬景色を見に行ってみようと思った。

この季節でもそれなりの観光客だった。大半は中国や東南アジア系の人たち。なぜかこういう場所では欧米系の観光客はあまり見かけない。

青い池ではなくて「白い池」でした。

宿の前からは十勝の山々が眺められた。どれがどの山かはよくわからず。

南ふらのスキー場、幌舞駅

1/23(木)から3日間、富良野の宿に泊まる。

今冬はまだ一度もスキーで滑っていないので、まずはスキー場で足慣らしをすることにした。

富良野スキー場のようなリフト券高額のところへは行く気がしないので、ローカルスキー場の南ふらのスキー場へ行くことにした。

リフトはシングルとダブルの2基が並行して設置されており、シングルの方が少し上まで伸びている。さらに上に1基あるのだが運行されていなかった。

上部はまあまあの中級斜面。足元に南富良野町の市街地が見下ろせる。

10時過ぎに到着して、2500円の8時間券を購入して、1時間弱の昼休憩をはさんで午後3時頃まで滑ったが、どうも今ひとつ気持ちが盛り上がらなかった。

その後、すぐ近くなので昨年6月に訪れた幌舞駅を再訪することした。冬の雪景色が見てみたかった。

駅舎の跡には映画「鉄道員」ゆかりのものがたくさん展示してある。

駅のそばにはロケで使われた建物も残されている。

ホームからは南ふらのスキー場が見える。

そして今宵の宿は富良野の「フロンティアフラヌイ温泉」。

ここの日帰り温泉はこれまでに何度も利用しているが、泊まるのは初めて。一度ゆっくり泊まってみたいと思っていた。

北海道へ

昨年のこの時期に北海道行きを計画していたのだが、出発当日の朝にフェリー欠航の連絡があって、翌日もおそらく欠航とのことで、ずいぶん前から宿の予約をしていて、突然の予約変更もできないので、やむなく計画を諦めた。

冬場の日本海はだいたい荒れているようで、昨年のことがあったのでフェリーの運行状況をずっとチェックしていたが、前の週も毎日のように運行が乱れていた。

しかしこのところは天気が安定して、何とか予定通りに行けそうだった。

定刻より少し遅れたが、1/21(火)の深夜12時過ぎに無事、敦賀港を出港できた。

翌日の午後3時半過ぎには龍飛崎を通過したが、思ったより雪が少ない。

ほぼ定刻の午後8時半少し前に苫小牧東港に到着して、まずはガソリンスタンドで軽油を満タンにして(軽油は冬は凍るので売っている地域によって成分が異なる。寒冷地ではその地で入れなければならない。ただし価格は全国と同レベル)、マックスバリュでビールと翌日の朝食と軽食を買って、予約しておいた佐竹旅館に行った。

磐梯山

10/27(日)はどこにするか最後まで迷った。

4月に東吾妻山には登ったが、登っていない西吾妻山に行って吾妻山両山クリアということにするか、はたまた有名な磐梯山にするか。

磐梯山はあまりにも有名なのでこれまではさほど興味が湧かなかったのだが、ちょっと調べてみると実は火山で、私好みの火山地形が味わえそうで、それに惹かれて磐梯山に行くことにした。

4月にも車で通った八方台登山口の駐車場は、7時半ですでにほぼ満杯状態だった。

7時50分に駐車場を出発した。登山口は駐車場のすぐ向かい。

好天の日曜日なのでハイカーが多い。20分ほど登ると磐梯山の頂上部が望めた。

中ノ湯跡。硫黄の匂いが漂っていた。

後ろに西吾妻山から東吾妻山にかけての全景が見えてきた。

出発して1時間20分ほどで弘法清水へ。清水には帰路に立ち寄ることにする。

さらに登ると背後に噴火口壁と、後ろには吾妻山連峰。

山頂は混雑していた。

9時半に山頂(1816.2m)に到着した。

山頂からのパノラマ。猪苗代湖は半分雲海に覆われていた。

山頂直下に小屋があったが、営業していなかった。

写真を撮ったら早々に下山。

弘法清水で湧水を一杯。定期的に水質検査をしているので安全とのこと。

すぐそばには営業小屋が二つある。

湧水の前に岡部小屋。

斜め向かいあたりに弘法清水小屋。

どちらもメニューが出ているが価格は書かれていない。いずれにしても飲む気はないけど。

下山はまずは北側の旧噴火口の方に向かう。

期待通りの光景。

振り返るとあれが天狗岩?

これから辿る尾根。右は櫛ヶ峰だがここには登らない。

右手に火口壁を眺めながら樹林帯を急激に下る。

弘法清水から1時間弱で火口原まで下りてきた。

今度は左手に火口壁を眺めながらしばらく樹林帯を行く。

スキー場への広い道に合流した。

ほどなくスキー場のトップへ。桧原湖が見下ろせる。

スキー場から15分ほどで銅沼(あかぬま)へ。

出発して4時間ほどになったのでここでおにぎり休憩にした。

ここから標高差で200mほどの登り返しだが、30分ほどで往路の道に合流した。

そして午後1時前に登山口に戻ってきた。

早朝に来てさくっと登って下りる人が多いようで、駐車場の車は半分くらいに減っていた。

さて、明日以降どうするか?

行動食の残りを食べながら天気予報を調べてみると、明日以降は天気が崩れる予報。

これまで予想以上にスムーズに行程をこなせてきたので、このあたりでお終いにするのが安全だろうと判断した。

ということで帰路に向かうことにする。

温泉は坂下の洲走の湯にした。

山の中でまわりは畑以外何も無いようなところで、本当にこんなところに温泉があるかと疑うような場所だったが、本当にありました。

浴槽は定員3〜4人程度の小さなもので、訪れるのは地元の人が大半かも。私が入った時に入っておられたもう一人の高齢の方はいかにもそういう雰囲気だった。

無色無臭のお湯だが、肌触りはぬるっとしていて、間違いなく温泉。何日か滞在して湯治するにはいいのではないかという感じのお湯だったが、近くには店も何もない。

コアな湯治マニアならお気に入りかも。

その後、会津坂下のインターチェンジから高速に入ってから新潟のサービスエリアで一夜を明かして、翌日の昼過ぎに無事帰宅した。