下曽我、江ノ島、東京

6/21(水)は熱海からまず国府津(こうず)へ行って、ここで御殿場線に乗り換えて一駅の下曽我へ。

下曽我は梅林が有名だそうだがもちろん今は梅の季節ではない。それよりも目的は「斜陽」の元になった日記を提供した太田静子さんが暮らしておられた雄山荘という別荘の跡を訪ねること。

太宰のファンだった文学好きの静子さんが太宰に手紙を送って、その後、太宰から「日記を書くといい」というアドバイスを受けて日記をつけていた。

そしていつの間にやら二人は恋愛関係になる。その頃、太宰はすでに結婚して子供もいた。

昭和 22 年に太宰はここ雄山荘を訪れて日記を受け取る。そしてその時をきっかけに静子さんは太宰の子を身ごもることになる。

そのあと太宰はその日記を持って伊豆の安田屋旅館にこもって「斜陽」を書き上げた。

雄山荘は十数年前に火災で消失しており、建物は残っていない。

簡単な地図を頼りに城前(じょうぜん)寺の前と思われる細い道に入る。

地図によるとこのあたりと思われるのだが案内板も何も無い。

細い道を辿って行ったら城前寺の前に出た。

曾我兄弟の仇討ちという有名な話があるそうだが私は知らない。この寺は曾我家の菩提寺だそうで、しばらく歩いていたら供養塔が現れた。

本数の少ない電車の時間に合わせて駅に戻る。戻る途中で出会った保育園の園児たち(おそらく)。こんなところにこれだけ小さな子供たちが住んでいるのを見てちょっとびっくりした。ひょっとしたら小田原あたりの通勤エリアなのかも。

後から考えるとどうも私の見た雄山荘跡は場所が違っていたのかも知れないと思った。ただ、歩いた経路を考えると城前寺へ行く途中で前を通っているはずなのだが案内板らしきものは目に入らなかった。ちょっと心残りではあるが、いずれにしてももう建物は残っていないので、わざわざ再訪するほどのことでも無いだろう。

国府津からまた東海道線に乗って藤沢へ。藤沢から江ノ電に乗り換えて江ノ島の少し先の腰越に向かう。

江ノ電は平日にもかかわらずずいぶん混雑していた。大半が観光客と思われる。

腰越駅からまずは小動(こゆるぎ)神社を参拝して、それから海岸に回り込んだ。

小動神社は前の断崖の上にあって、この海辺の海岸あたりで昭和5年、太宰 21 歳の時に銀座のカフェの女給だった田辺あつみ(田部シメ子)と薬物心中をはかった。

太宰は一命を取りとめたがあつみは死去した。

このころ太宰は青森の芸者だった小山初代と一緒になる予定で、あつみは他の男性と同居していた。しかも太宰とあつみは知り合ってまだほんのわずかの日しか経っていなかった。

太宰の実家(津島家)はあと始末に大変な苦労をされた模様。

この時に太宰が収容された病院が google map にまだ記載されていたのでそちらに向かってみたが、どうもすでに取り壊されたような様子。

腰越の一つ鎌倉寄りの鎌倉高校前駅から藤沢に戻った。観光客のほとんどは中国人のよう。

さて、久しぶりの東京へ。何かよくわからない経路で1時間足らずで新宿に着いて、山手線に乗り換えて巣鴨へ。やってきたのは染井霊園。

あのソメイヨシノはこのあたりの植木職人たちが開発したのでソメイの名前が付いている。

この霊園には著名人のお墓がたくさんあるのだが、私の目的は松浦武四郎。

武四郎は遺言で、自分が死んだら一畳敷を壊してその木で遺体を焼いて、遺骨は大台ヶ原に播いてほしいと言っていたのだが、一畳敷は文化的価値が高くて壊すのはもったいないということで保存されることになり、遺骨は一部が大台ヶ原に置かれて、ここ染井霊園にお墓が建てられた。

お次は今回の旅の最大の目的の一つの本郷の永泉寺に向かう。地下鉄を乗り継いで江戸川橋で降りて、駅からは 10 分足らずくらいだった。

染井霊園の武四郎は案内板が設置されていたがここはそういうものは一切無く、狭い墓地をうろうろ歩いてようやく見つけた。

太宰と玉川上水に入水した山崎富栄さんの眠っているお墓。6/19 が有名な太宰の桜桃忌で、6/13 はあまり有名ではない白百合忌だったせいか、きれいなお花が供えられていた。

富栄さんは享年が記載されていない。

お墓が見つかるかどうか不安だったので手ぶらでやってきたが、ほんの少し坂を下ったところにコンビニがあったのでそこで小さな缶ビールを買ってきて、墓石にかけてお参りした。

富栄さんは特に文壇からひどい誹謗中傷を受けて、太宰を殺した殺人犯のような汚名をきせられてきたが、そんなことは決して無いと思う。晩年の作品は富栄さんの助力無しには生まれなかったということは彼女の残した日記を読めば明らかだ。

またまた地下鉄を乗り継いで末広町へ。場所の関係で前後してしまったがここには松浦武四郎が暮らした家の跡がある。

おおきな楠のふもとに銘板が建てられている。

さて、最後に銀座のバー、ルパンへ。Lupin の看板はもっと赤色だったのだけれど・・・。

何と言っても有名なのがこの写真。一度ビルが建て替えられているけれど店の作りはほとんど昔のままだそうです。何と、黒電話が現役で働いていました。

ビール小瓶とマティーニ、ウインナーで 5000 円弱。安くはないけれど銀座だし、明瞭会計です。

カウンターと他には数席くらいの小さな店で、平日の6時くらいに入ったけれどすでに7割くらいは席が埋まっていました。

店を出てもまだ明るい。

今宵の宿は新宿へ。

久しぶりのカプセルホテル。ソフトドリンクやごはん、つけもの、味噌汁が食べ放題。夜はアルコールも提供されていて、非常にコストパフォーマンスが高かった。それにカプセルホテルだと大きな風呂に入れるのがいい。

満足の一日でした。

伊豆、三島、熱海

昨年の秋に太宰治ゆかりの地を訪ねて津軽へ行ったが、太宰の作家としての活動はほぼ東京が拠点だった。なので東京を中心としたゆかりの地もぜひ訪れてみたいと思っていた。

ちょうど梅雨の最中で山では天候が不安定なので、このタイミングで街歩きの探訪に出かけることにした。

6/20(火)の早朝の新幹線を乗り継いでまずは静岡県の三島へ。

三島の街歩きは後回しにして伊豆箱根鉄道とバスを乗り継いで三津(みと)の安田屋旅館に向かう。案内では「三津シーパラダイス」という停留所で降りると書かれていたが、手前の「シーパラダイス駐車場」で下車される方がおられて、ふと見たら安田屋旅館の駐車場という看板が目に入ったので私もそこで降りた。

安田屋旅館はここからほんの 100m くらい先のところにあった。

建物は昔のままだそうだ。

太宰は下曽我(翌日訪れる予定)で太田静子さんの日記を借りて、この宿で「斜陽」を執筆した。

「海は、かうして

お座敷に坐って

ゐると、ちやうど

私のお乳のさきに

水平線が

さわるくらゐの

髙さに見えた。」

終点まで行ったバスがちょうど戻ってきたのに乗って、わずか 15 分くらいの滞在で往路と同じ経路で三島に戻った。

太宰は若い頃、何度か三島の知り合いの家の部屋を借りていくつかの作品を執筆している。

三島は街のいたるところに富士山の伏流水が流れている。

この小川沿いには幾人かの作家の碑が並んでいる。

太宰の碑はかなり先にようやくあった。

ここから少し離れたところに、居候していた「坂部武郎酒店」があったのだが、もはや何も残っていない。

ただ、夜はしばしばすぐ近くの「松根印刷所」の二階で寝ていたそうである。

三島駅そばの立ち食いの店で昼食を済ませて、熱海に向かった。

まずは温泉街とは反対の山側に向かう。「人間失格」の執筆のために山崎富栄さんと滞在した起雲閣別館はこの上の方にあった。富栄さんの日記に「どうも、どうも、山の上だけあって全く、「登る」です。」と書かれているように、神戸の山手に勝るとも劣らないくらいの坂を上る。こんなところをショートカットする。

そんな道を 20 分近く登っただろうか、威容な建物が目の前に現れた。

起雲閣別館はもう何年も前に無くなって、「ラ・ヴィ熱海」というリゾートマンションに変身している。

このあたりに碑が置かれているということだったのだが、どこにも見当たらない。建物のそばの朽ちた階段を上がったりしてみたがやはり発見できず。

うろうろしていたらちょうど玄関先でマンションの清掃をされているような女性がおられたので尋ねてみたが、「知らない」とのつれないお返事。

マンションの清掃をされているのであれば隅々までご存知のはずなので、そういう方がご存知ないということであればもう無くなっているのかも知れない。

仕方無いのであきらめて、登ってきた坂を下って線路の反対側の温泉街の方に向かった。

熱海といえば2年ほど前に人災のような大規模土石流が発生したことを思い出した。調べてみたら発生現場はここよりはだいぶ東京寄りの場所だったようだが、こんな地形であれば土砂崩れが発生してもまったく不思議ではないと感じた。

お次は起雲閣の本館へ。ここはかつては大金持ちが別荘として所有していたもので、太宰や何人かの小説家が利用していた建物だが、今は熱海市が所有して文化財として公開している。

入館料(610円)を払って中に入る。太宰が滞在した部屋も当時のままで残っている。

ちなみに太宰は伊豆の安田屋や起雲閣など非常に高級な宿に泊まっているが、自分ではほとんど金を払っていない。たいがい出版社の負担だった。

次には歩道の無い交通量の多い車道をしばらく上って「緑風閣」へ。ここは檀一雄と滞在したところで、檀の作品に「碧魚荘」と書かれているところ。

ずいぶん駅から離れてしまったが、ここから駅の方向に戻る。

檀一雄が太宰を訪ねて行った「村上旅館」。まさか営業はしていないと思うが看板はかかっていた。

このあともう一カ所太宰が滞在していた「旅館八百松」を探してみたが、結局どこかわからず。このあたり?

今日の予定の訪問先はすべて辿ったので、今宵の宿は駅の近くの「伊東園ホテル 熱海館」。

ほぼ 9000 円の宿泊料でバイキング朝夕二食付き。おまけに夜はアルコール類も飲み放題という破格の値段で、料理の質もそんなに悪くなかった。夕方、夜、朝と温泉も3回楽しんで、とても満足できました。

日出ヶ岳、斎宮歴史博物館、松浦武四郎記念館

松浦武四郎のことを知ったのはほんの2年前くらいだったと思う。北海道へ行くようになってからのことだ。

松浦武四郎は幕末から明治にかけて活躍した人で、その当時まだ細部が知られていなかった北海道(その当時は蝦夷)を何度も訪れて、樺太や千島列島にも足跡を残して、アイヌと交流しながら詳細な地図を作り上げた。

明治政府からの依頼を受けて蝦夷と呼ばれていた地に「北海道」という名称を付けた。ただし武四郎が候補に挙げたときは「北加伊道」という字をあてていた。

関連本を読んだり、YouTube にアップされている映像をいくつか見たりして、松阪市にある記念館には一度訪れてみたいと思っていた。

武四郎は晩年に何度か大台ヶ原へ行っている。大台ヶ原に武四郎の碑があることを知ったので、まず大台ヶ原へ行ってこの碑を訪ねて、それから松阪の記念館に行こうと思った。ついでに記念館からさほど遠くないところにある斎宮歴史博物館にも行ってみよう。

6/10(土)の朝5時半に家を出た。天気予報では午前中はまぁまぁだが午後からの降水確率が高くなっている。雨の多い大台ヶ原だが午前中はもってくれることを期待しよう。

途中で朝食のパンを食べて、3時間ほどで大台ヶ原に到着した。

まずは車の中でコーヒーを飲んでから軽装で出発した。武四郎の碑までは30分もあれば行けるだろう。

大台教会のそばを通って行くので教会の看板のところに入る。

すぐに大台教会があった。明かりが見えるので誰か住んでいるのだろう。

1年のうち半分くらいは閉ざされた場所なのだけれど、どういう人たちがここに来るのだろうか。教会とは言うもののキリスト教の教会ではないようで、いわゆる新興宗教の一種のようなものだろうか。

このそばを通って少し行くとゲートがあって、管理人がいた。何と、この先は保護エリアなので入るには許可が必要で、そのためにはお金を払ってレクチャーを受けなければならないとのこと。

いきなりのハプニングでがっくりきたが、そういうルールになっているのであれば仕方ない。とりあえずは戻るしかない。

とにかく今日は諦めるしかないのだが、このまま収穫無しでここを離れるわけにはいかないので、日出ヶ岳だけでも行っておくことにした。

ビジターセンターの横からハイキング道に入る。

25分くらいで展望台に出た。展望台からの熊野灘。

その後、階段を5分ほど登って山頂の展望台へ。

ビジターセンターから30分ほどで日出ヶ岳の山頂(1695.1m)に到着した。ここは3年ぶりくらい。

今度は山頂からの熊野灘。

台高山脈の山々。

西に目を向けると大峰山脈。右に山上ヶ岳。その左の突起が大普賢岳。さらにその左の小さな突起が行者還岳。さらに弥山、八経ヶ岳、そして釈迦ヶ岳。

1時間ほどで日出ヶ岳を往復して、お次は三重に向かう。経路の都合でまずは斎宮歴史博物館へ。途中で昼食を取ったので3時間以上かかった。

斎宮というのは飛鳥時代から南北朝時代くらいまであったもので、天皇の代わりに伊勢神宮に仕える斎王と呼ばれる女性が暮らした施設で、この近くの広大なエリアで様々なものが発掘された。

ちょうど15分ほどのビデオ上映があるとのことで、まずはそれを観賞。

展示室は二つあって、なかなか充実していた。

入場料360円にしては立派な展示だった。

さらにこのあと、2種類あるうちのもう一つのビデオを鑑賞した。

本当ならこのあとそばにある斎宮跡を訪ねたかったのだが、すでに午後3時でこの広大なエリアを歩いていると武四郎記念館が閉まってしまうので、斎宮跡はまたあらためて来ることにして武四郎記念館に向かった。

武四郎記念館までは30分くらいだった。

ここも入場料は360円。

展示室に入ると武四郎が晩年に自宅に作った一畳敷の原寸大模型が展示されていた。

それにしても武四郎の筆まめさには驚かされる。特にスケッチが非常に巧妙で、こんな精細な絵が短時間でよく書けるものだと感心する。武四郎の時代にはそろそろ写真機が登場していたと思うが、一般人が使えるようなものではなかったのだろうと思う。

武四郎よりは少し後の時代になるが、イザベラ・バードも精巧な絵をたくさん残していた。

このパネルは唯一残っている武四郎の写真で、首から下げている飾り物の複製品が展示されていた。

展示室は1カ所のみで、斎宮歴史博物館よりは小ぶりだった。土曜日なので混雑しているのではないかと懸念していたが、実際には見学客は入った時に他に一人おられただけで、私の後には誰も来なかった。どうも一般的な知名度はあまり高くないようだ。

この近くに武四郎が生まれた家が残っているとのことだったが、もう時間も無いのでそこには立ち寄らなかった。

大台ヶ原の武四郎の碑を見ることができなかったのが心残りではあるけれど、武四郎の碑は北海道だけでも10箇所以上あるし、いずれにしても後世の人が建てたもので、観光目的で建てられたようなものも少なくないと思うので、あまり無理してまで訪れるほどのものでもないような気もする。

鳥取砂丘

5/16(金)は鳥取砂丘を訪れた。

鳥取駅前発9時過ぎの始発のバスに乗って、20分少々で終着の砂丘会館へ。乗客は外国人観光客が多かった。

階段を上がって砂丘を望む。

トレラン用のゲイターを着用して、馬の背に向かう。

見た目よりは近くて10分くらいで馬の背の上に着いた。日本海が目の前に広がっている。

馬の背からのパノラマ。

海岸まで行ってみようと思ったのだが、意外と傾斜があって帰りが苦労しそうだったので諦めて、馬の背の稜線を辿ってみた。

草が生えているところもあって、ハマヒルガオ。

馬の背の麓のあたりには何故か水の流れがある。

ちょっとした池ができている。

この水の流れはどこから来ているのだろうと思って上流に向かってみたら、水源地はほんの 30m くらい先でした。

これでもう戻ろうと思って歩き出したのだが、時間を見るとまだまだ余裕がある。これなら海岸まで行けるのではないかと思い直して、馬の背よりも低くなっている部分を目指して登り返してみた。

うまい具合にここからの斜面は傾斜が緩そうだった。

無事に海岸までたどり着けて、海の水を舐めてみたらやはりちょっとしょっぱかった。

ラクダ乗りがあるのでちょっと寄り道してみた。

砂丘会館に戻って土産を買った。梨ソフトクリームがおいしいと聞いていたので食べてみようと思ったら500円もしたのでさすがに腰が引けて、まだ次のバスまで少し時間があるので別の土産物屋に立ち寄ってみたら、ここでは梨ソフトが 330 円で売っていた。

500円の店のものとどれくらいの違いがあるのかわからないが、十分満足できる味でした。

さて、午後の列車で京都に向かう。実は特急一本で大阪に帰れるのだが、今回は山陰本線に乗りたいと思って、あえて城崎温泉で別の特急に乗り換えた。

余部(あまるべ)鉄橋をゆっくりと通過中。

もう30年以上も前のことだが、列車がここを通過中に突風に煽られて鉄橋から転落して下にあった水産加工工場を直撃して、電車の車掌と工場の作業員数人が亡くなるという事故があった。列車は回送列車だったので乗客はいなかった。

兄弟赤島。

丸山川の対岸に玄武洞。

京都駅には午後5時過ぎに帰ってきた。

こういう鉄道旅はほとんど初めてと言ってもいいくらいだったが、好天を狙ったおかげもあって非常に楽しめた。ぜひまたどこかへ行ってみたいと思う。

出雲大社

5/25(木)は出雲大社(いずもたいしゃ、いずもおおやしろ)に向かう。今回は人生初の島根県(のはず)で、もちろん出雲大社も初めて。

一畑電車を乗り継いで朝の8時に出雲大社前駅に到着した。

5分ほど歩いて参道入り口へ。

参道は松の木の根の保護のために両横の歩道を歩くようにとのこと。

ほどなく拝殿へ。

有名な巨大なしめ縄。

拝殿の横を回り込んで本殿のエリアへ。

本殿のエリアには入れないが、中を覗くと。

お参りする人たちがたくさん拍手するのが不思議に思っていたら、ここではそれが礼儀だそうです。

四拍手の意味は四季や東西南北の四方向を守る神への敬意というような説があるとか。他にもこういう作法を行なっている神社がいくつかあるらしい。

まだまだ時間があるのでそばにあった宝物殿に入ってみた。300円なり。

展示はそこそこ充実していた。

お次は古代歴史博物館に向かうのだが、参道の横に「ムスビの御神像」。

なんかちょっと違和感がある。

そして古代歴史博物館へ。

JAF割引で490円で入れたが、展示は非常に充実していた。

ビデオ上映なども楽しんでゆっくりしていたら、実は予定のJRの電車の時間にはギリギリということに気がついてあせった。

駅のそばで出雲そばでも食べようと思っていたのだがそんな時間はまったく無く、ライスバーガーを買って待合のベンチでほうばった。そして乗り換えのアプリで調べてみたら、万が一、予定の電車に乗り遅れたとしても、後の特急に乗れば追いつくことができるということがわかって少し安心した。余計な出費にはなるのだけれど。

一畑電車からJRの出雲市駅までは少し離れているのだが猛ダッシュで駆け込んで、何とか予定の電車に乗ることができた。

今日は鳥取のホテルに泊まる予定なのだが、ひとまず米子まで普通電車で行って、ここからは特急に乗る。

海側の席に座って、これは穴道湖。

松江市を過ぎると中海が見えた。

米子で乗り換え時間が30分ほどあるので一度改札を出て、そばにあったコンビニでコーヒーを買って時間潰しした。

ホームで列車を待っていたら派手なラッピング列車が停まっていた。

海側の席に座ったので大山を見ることはできなかった。

午後4時頃に鳥取駅に到着した。

鳥取駅で驚いたのは地方の中核都市の駅なのにICカードが使えない(?)ということ。改札も二つくらいしかなくて、通勤や通学の時間帯はかなり混雑するのではないかと思った。

駅から5分くらいのホテルにチェックイン。旅行支援のサービスが受けられるとのことで、ホテル代の割り引きとともに2000円分のクーポンがもらえた。

夕食にはネットで見つけた駅前食堂というところへ行ってみた。ホテルからも近かった。

残念ながらここは失敗だった。料理の問題ではなく、やや高齢の男性がたった一人で切り盛りされているので、なかなか注文もやりにくいし、注文が重なると時間がかかる。また、メニューの品数も少ない。

小さなカウンターだけの飲み屋でママさんが一人で切り盛りされているような店はいくらでもあるけれど、ここはカウンターではなくてテーブル席なので、注文しようと思ったら声をかけにいかなければならない。

勝手知った地元の人が気楽に来るような店で、旅行客が行く店ではありません。

木次線スイッチバック

登山や山スキー、トレランなどは体力的にかなり厳しくなってきていて、自分で納得できる山行きなどができるのはもうあとせいぜい2〜3年くらいだろうと思っている。

もちろんハイキング程度の軽登山は続けると思うが、事故の危険性のあるような山はもう辞めた方がいいだろうと思っている。もちろん低山でも事故の危険性はあるのだが。

そこでその次に何をやりたいかと言うと、鉄道を使った旅をやりたいと思っている。

鉄道旅に対するあこがれは何年も前からあって、昨年はJRのジパング倶楽部という高齢者対象の割引プログラムに入った。

今月いっぱいで有効期限が終わりになってしまうのだが、これまでにはまだ2回使っただけで、それも利用できる最低距離に近いくらいの旅程なのでまだ会費の元も取れていない。

実はすでに更新されて新しい会員手帳が届いているのだが、以前のものもまだ今月いっぱいは使えるので、何とかこれを活用したいと思っていた。

何ヶ月か前にネットの番組でJR木次(きすき)線のスイッチバックというのを見た。鉄道で標高差の大きい斜面を通過するためにZ字状に線路を敷いて、一旦一方にたどり着いたら運転手が反対側へ移って逆方向に進むということを何度か繰り返す。箱根登山鉄道が有名だが、JRではここくらいだろうか。

箱根のような超観光地には足は向かないので、今や廃線の危機に瀕しているというこの木次線に乗ってみたいと思って、鉄道旅を計画してみた。

5/24(水)の朝に家を出て、まずは新幹線で岡山へ。そして伯備線で新見(にいみ)へ向かう。ギリギリのスケジュールは避けて一本早い便に乗った。

1時間半ほどで新見に到着。

ちょうど昼時だったので駅前の店でランチを食べた。意外と混雑していた。

そして芸備線で備後落合に向かう。

しかしこの路線、今年3月に落石事故があって、東城駅から先は代行バスでの運行になっている。このバスに乗ったのは私を含めて4人。そのうち一人は途中で下車された。

40分ほどの乗車で備後落合駅に到着した。

この駅、最盛期には100人以上の職員がいたそうで、駅のそばには宿が並んでいて、パチンコ店すらあったとのこと。それが今ではJR西日本でも屈指の赤字路線で、廃線の危機に瀕している。

広島方面から来た列車が停まっている。

この列車からはわりと多くの人が降りてきたが、そのほとんどは木次線に乗るのではなくそのまま引き返すようだった。

さて、しばらくして木次線の電車(実際はこの路線は電化されていないので気動車)がやってきた。もっとレトロな車両がやってくるのかと思っていたが、意外とハイカラだった。

乗客は10人程度だった。ここでも乗ってきてそのまま引き返す人が何人かおられた。

定刻の14時43分に備後落合駅を出発した。

JR西日本の駅の中で最も標高の高い三井野原駅(727m)を過ぎると下りにさしかかり、奥出雲おろちループの手前の高架橋が目に入ってきた。

このあたりはゆっくりと走ってくれる。これは奥出雲おろちループ。

そして3回スイッチバックを繰り返す。

3回目の場所は出雲坂根駅。ここで何人かの方が下車された。

こんな立て看板が。

宍道に近づくにつれてそれなりに乗客も増えて、17時38分の定刻に宍道駅に到着した。木次線3時間の旅だった。

そして今宵の宿の出雲市に向かった。

本場ののどぐろを味わった。まぁこんなもんかなという感じ。

そしてホテルにチェックインした。

帰阪

3/2(木)の昼のフェリーで仙台から名古屋に向かう。

ホテルでは朝風呂を楽しんでから朝食バイキングを食べて、9時頃に出発した。

時間があるので下道で仙台港まで2時間ほど。

翌朝(3/3)の朝10時半頃に予定通り名古屋港に着いて、高速に乗って昼過ぎに帰宅した。

中尊寺、鳴子温泉

3/1(水)は実質的に今回の遠征の最終日。昨日の刈田岳が予想以上に疲れたので昨日からあまり気力が無かった。

幸か不幸か予報通り山の方は雲が垂れ込めていたので栗駒山はやめて、中尊寺へ向かうことにした。

8時半の開門に合わせて参道そばの有料駐車場に入って、正面から入る。

塔頭がたくさんあって、まずは弁慶堂。

月見坂をさらに上がって、本坊表門。

門をくぐると正面に本堂。

金色堂は有料(800円)。中は撮影不可。

奥の建物は1965年に建てられた覆堂。金閣寺もびっくりの金ピカ!!。60年くらい前に解体修理されていて、国宝第一号。藤原清衡、基衡、秀衡の御神体化した遺体と泰衡の首級が納められている。

松尾芭蕉の碑。

松尾芭蕉が歌に読んだ束稲(たばしね)山。

山門に戻って、さらに少し下に弁慶の墓碑。

義経自害の地と言われている高館義経堂(たかだちぎけいどう)が近くにあるのだが、冬期拝観休止ということで入れなかった。

さて、今日は鳴子温泉のホテルに泊まる。昨年4月に仙台市内のホテルに泊まって歓楽街の居酒屋へ行ったのだが、仙台市内はもう行きたくないという気分なので、少し離れた場所の温泉に泊まって、翌日の昼のフェリーに直接向かうことにした。

ここから鳴子温泉までは2時間くらいかかるが、それでもまだまだ時間がある。鳴子温泉の近くにオニコウベスキー場というのがあるのでそこへ行ってみることにした。

もう午後2時なのでさすがにこれから滑る気にはならないので、山用に用意しておいた行動食を食べて時間をつぶして、それから鳴子温泉へ行って温泉街を散策することにした。

湯めぐり用の無料駐車場に車を停める。そばには源泉から煙が上がっている。

街中に硫黄の匂いが漂っていて、道端の溝からも湯気が出ている。温泉らしいいい雰囲気だと思うが、街は閑散としている。

奥州三名湯のひとつで古い歴史のある温泉地なのだが最近はさほど人気がないのだろうか。

JRの駅も温泉街のそばにあるので便は良さそう。ただし本数は少ない。

今宵の宿は「ますや」。

大江戸温泉物語のチェーンでアルコール飲み放題付きで1泊1万円少々。食事はバイキングで、まぁ値段相応のレベルでした。風呂は良かったと思います。

それにしてもこういうホテルで部屋で WiFi が使えないというのは初めてだった。

仙台へ

蔵王の樹氷の中をスキーで滑るのは長年の夢だった。

そんなわけで今年の初遠征は蔵王に向かうことにした。聞くところによると樹氷は2月が一番発達するらしい。

ということで昨年4月に東北遠征した時の帰路に乗った太平洋フェリーで今度は名古屋から仙台に向かうことにした。

名古屋港を2/20(月)の夜7時出港で、仙台着は翌日の午後4時半くらいの予定。舞鶴や敦賀から北海道へ行くのと同じくらいの時間がかかる。

このフェリーのレストランは内容のわりに高いということがわかっていたので、食事はすべて持ち込んだ。電子レンジがあるので温めることができる。

翌日は穏やかな好天だったので甲板に上がってみた。茨城沖くらい。

仙台到着後はまずガソリンスタンドで軽油を満タンにして、コンビニで食糧を調達してから仙台の南の方の村田町にある「道の駅 村田」を今宵の宿にした。

ウポポイ

10/27(木)はいよいよ最終日。当初は半日程度の山にでもと考えていたが、昨日の羊蹄山でもう満足して、おまけに疲れも残っていたので、のんびりと過ごすことにした。

とは言ってもいざどうやって一日を過ごすかとなるとなかなか名案が浮かばない。

天気もいいのでまた支笏湖へ寄ってのんびり山を眺めたり湖畔を散歩したりしようかと思ったが、これではせいぜい半日しか過ごせないだろう。苫小牧はあまり惹かれる場所がなくて、またウトナイ湖の道の駅へ行っても時間を持て余しそう。

そこでふと思いついたのが白老(しらおい)の「ウポポイ」。今年の1月に一度訪れたが、この時は北海道に緊急事態宣言が発出されていて、おまけに厳冬期ということもあって、完全な状態ではなかった。入場には前日までの予約が必要で、博物館の見学も時間が指定されていたし、ホールは何もやっていなかった。

ここなら午後までゆっくり時間をつぶせるのではないかと思って、開館直後の9時過ぎに入場した。

早くもそこそこの入場者があった。まずホールでの催しものの入場整理券をもらってから博物館へ。1月に来た時は別料金で、おまけに入場時間も指定されていたが、今回は追加料金は不要で、すぐに入れた。

ショートムービーの映像などがたくさんあって、前回ゆっくりできなかった分をじっくりと見ながら歩き回った。

知里幸恵の自筆ノートも展示されていた。

ホールでの上演時間が近づいてきたので一旦出て、ホールでアイヌの踊りなどを見学した。

終わったら次の催しの整理券をもらって、再度博物館へ。

そしてまたまたホールでアニメを見てからレストランで昼食にした。阿寒湖屈斜路湖のコタンで食べたような行者ニンニクがたっぷり入ったような雰囲気のメニューはなく、ジンギスカンなどの普通の北海道の料理ばかりだった。

目の前にはポロト湖。

このそばの広場でアイヌの踊りをやるということなので見学した。

以前から興味があったムックリの演奏もあった。★これはその時の映像ではありません。

その後、チセの一つに入ったらムックリを教えてくれるというところがあった。

ムックリを買ってしまいました。1100円なり。阿寒湖のコタンでは500円くらいで売っていたような記憶があるのだが、まぁケチるほどの金額でもない。

売店でコーヒーを買ってのんびりしたりして、朝の9時過ぎから夕方5時まで飽きることなく楽しんだ。

薄暗くなってきてからウポポイを発って、苫小牧での定番になった「なごみの湯」へ。

ここは入浴料はやや高め(870円)だが露天をはじめ浴槽がたくさんあって、もちろん水風呂もある。

コストパフォーマンスの良い食堂があって、いちばんのお気に入りは2階の休憩室にゆったりできるソファがたくさん並べられていること。テレビがあって無料 Wi-Fi も快適。夜11時まで営業しているので夜の10時半チェックインのフェリーの時間までゆっくり過ごせる。今年の1月にたまたま利用したのだが、この時が快適だったので7月にも立ち寄った。

フェリーは定刻の夜11時半に出航して、おだやかな海を進んで翌日の午後8時半に敦賀に到着した。

今回はあまり山をガツガツと登るつもりはなくて、半分観光で山は軽めにという予定だったのだが、最後に雪の羊蹄山に登れて満足感十分の旅となった。