中学2年の時になぜかワンダーフォーゲル部に入って山に登り始めた。
とは言っても山へ行くのはほぼ月1回の例会のみ。それも雨だと中止になるので、年間の山行回数は 10 回くらいだったと思う。
夏山は常念岳や白山に行ったけれど、普段行くのは京都の北山だ。
その頃のバイブルは『京都周辺の山々』というガイドブックだった。
このガイドブックで非常に興味をそそられたのが高層湿原の八丁平と土蔵の残る廃村八丁。
その頃の中学生にとっては京都の北山と言えども八丁平や廃村八丁は最果ての地だった。
幸い、八丁平へは行く機会に恵まれたけれど、廃村八丁は結局その後も足を踏み入れることの無いまま、今日まで過ごしてきた。
バス便はあるけれど、1日3本しかない。2時間近く乗らなければならないので、もし座れなかったりしたらそれだけで疲れ果ててしまいそうだ。
車で行けばいいのだけれど、京都市内を通過しなければならないので、帰りの渋滞を考えるとなかなか思い切れない。
しかしここ3年ほど近場ですっきりしたロングルートはかなりトレースしてしまった感があるので、これからは不便で辺鄙な所に進出するしかない。
と言うことで、長年の憧れだった廃村八丁へ向かうことにした。もはや土蔵は残っていないけれど、どんな雰囲気の所なのか、この目で確かめてみたい。
そう思って、覚悟を決めて車で出かけた。
家からほぼ2時間で登山口の菅原に到着して、8時半に歩き始めた。以外と寒い。ノースリーブのアンダーを着てきて良かった。
朽ちた道標で気分は上々。
廃村八丁までは楽勝と思っていたし、始めのうちは道もはっきりしていた。
しかし間も無く道は不明瞭になり、沢筋はかなり荒れていた。
今日のシューズは salomon の crossmax。このシューズはソールのブロックが硬くてしっかりしているので、通常の山道ならかなり安心して歩ける。
しかし沢筋の濡れた岩というような状況になるとこの特徴が逆効果になって、とにかくよく滑る。こういう特性がまだよくわかっていなかった頃、沢を渡るときに何気なしに出した足が滑って、激しく転倒したことがある。
沢を渡る時はとにかく慎重に足を出した。
テープを目印に進んだのだが、いつの間にやらルートをはずしていた。gps で確認すると、本来のルートよりも北に行きすぎているようだ。
斜面をへつって本来のルートに合流しようとしたが、急な斜面に行き詰まってしまった。テープも見あたらない。
少し戻って何とか下れそうな斜面をずり落ちて、沢に下りついた。
写真では何と言うことの無い斜面に見えるけれど、なかなか緊張を強いられる下りだった。
沢筋をつめて行ったが、本来のルートはさらにこの南側の稜線のようだ。しかし南側の斜面もなかなかの傾斜で手強そう。
このまま沢をつめると合流できそうな感じだったので先へ進んだところ、ようやく本来の道に出会えた。
ダンノ峠までは1時間近くかかってしまった。
ここからは八丁平を思い出させるおだやかな地形で、小さな沢を何度も渡りながら先へ進んだ。
突然、建物が現れたが、同志社大学の研究施設らしい。
ここから先はこれも印象に残る名称の四郎五郎峠へ向かう。しかし峠への取り付きはまたわかりにくかった。
廃村八丁への道はかなりしっかりしていると予想していたので、この状況はまったくの想定外だった。
ほどなく四郎五郎峠に到着。
つづら折れを下ってしばらく行って、10時8分にようやく廃村八丁へ到着した。
かつての建物の石の土台がいくつか残っている。
山小屋があるが、施錠されている。
そのすぐそばには土蔵の跡。
定住者があったのは昭和の初期までだそうだが、それにしてもこんな場所に定住者がいたというのは今の感覚では信じられない感じだ。
このあたりは森林資源が豊富で、地元の地域間の争いが絶えなかったらしい。
その時代は今のように電気、ガス、電話なども普及していないし、交通機関も限られている。そんな時代なら水には困らない場所で、金になる森林資源が身近にある場所に住もうという発想はあながち突飛なものではなかったのかも知れない。
ただ、冬の厳しさは相当なものだったようで、廃村になったきっかけも豪雪で集落が孤立してしまったことが大きな要因だったとか。
ここの廃村の土台の石組みというのは、城跡の石組みが残っているのを見るのとはまったく違った印象で、殿様の生活というのはどう考えても自分とはつながらないけれど、ここの人たちのかつての生活はどこかでわずかながらもつながっているのではないかと思わせる雰囲気を漂わせている。
丸太に腰を下ろしてジェルを補給して、品谷山へ向かう。
品谷山へは目の前の沢を渡らなければならないのだが、渡渉地点が見あたらない。仕方無く少し上流へ戻って、浅瀬伝いに渡れそうな所で渡ることにした。
石を飛ぶのは危ないので、多少の濡れは覚悟して流れの浅そうな箇所に足を置く。それでも案の定、足を滑らせて、転倒は免れたものの、シューズは流れに沈没した。
まぁこういうことはトレランでは覚悟の上だ。そのために濡れても冷えない、不快感の少ないソックスを履いてきている。
道は不明瞭だが、ほどなく沢が細くなって、自然と流れのそばを登るようになった。
今日は誰にも会わないと思っていたら、上から二人の男性が下ってきた。年は私よりは若そうだが、かなりのベテランという感じだった。
沢筋から離れて急な斜面を這い上がって、品谷峠へ到着。
ようやく道がおだやかになって、はっきりしてきた。稜線を行くようになったが、木が多くて展望はあまり無い。
品谷山(880.7m)へは11時前に到着した。
稜線をしばらく行くと、今日初めて少し展望の得られる場所に出た。見えているのは南の方角だが、どこの山かはわからない。
少し下ると十数人の中高年団体が上がってきた。
ダンノ峠への分岐点。
少し下ると今度は少し年代層の若い女性主体の10人ほどの団体が上がってきた。トップはいかにもガイドという雰囲気の男性。
佐々里峠手前には電波中継塔が立っていた。
品谷山を出て35分くらいで佐々里峠に降り立った。
道路を渡った先の道がよくわからなかったが、駐車スペースの奥から階段が上がっていた。
地図のルートより少し手前に小野村割岳への分岐が出てきたので、そちらへ向かう。
しかしすぐに元の道とまた合流して、その少し先にまた分岐があった。
ここからは杉の巨木がいくつかあるらしい。
12時を過ぎているので、こんな木に腰掛けておにぎり休憩にした。
ほどなく巨大杉。
雷杉の所には家族連れのような集団がいた。
この道は私の持っている登山地図では破線の不明瞭ルートになっているが、私の印象では実線表記の廃村八丁への道よりはるかにしっかりしている。天気さえ悪くなければ迷う心配の無さそうな道だ。
これはブナ?
小野村割岳(931.7m)には13時10分に到着した。
当初の予定では三国岳まで行って、久多へ下りて車道で戻る計画だったのだが、そちらへ行ってしまうと途中でショートカットできるルートが無い。時間的にもかなり厳しそうだ。
車道まで下りてしまえば暗くなっても大丈夫だろうが、今日はそこまでモチベーションが高くない。
まだ時間は残っているけれど、今日はここからすんなりと南へ下りることにした。
少し下った所で少しだけイワウチワ。
15分ほどでしっかりした道に出た。
地図では林道のような表記になっているので、車が通れるくらいの道かと思っていたのだが、実はどんでもなく荒れていて、元林道という方がふさわしい。手入れなどまったくされていない。
少し下ると変わった滝。
もう少し下るとまた滝。
さらに下るとゲートがあって、ここからは少しまともな道になった。
猟銃を持った人がいてちょっとびびったが、2時半過ぎに車の場所に戻ることができた。
今日は行動時間が6時間くらいで、距離も 20km 少々というところ。不完全燃焼と言えば不完全燃焼だったけれど、ルートが不明瞭なコースへ行く時はあまり距離は欲張らずに、堅実に歩くということを最重視した方がいいように思った。
比叡山北方稜線へ行った1回目もそうだったけれど、今日も結果的にはこれで良かったのだろうと自分に言い聞かせている。
帰りの車も恐れたほどの渋滞にはならず、5時過ぎには家に帰ってくることができた。
また車利用で残った宿題に取り組んでみようと思う。