深浦へ

6/29(日)は深浦へ向かう。

深浦は太宰が「津軽」執筆のために津軽半島を旅した時に泊まっており、疎開のための帰省の時にも再訪しているところで、ここにはぜひ泊まってみたいと思っていた。

移動距離は少ないので、途中で時間潰しをしながらゆっくり向かう。

ホテルは朝食付きだったが、コーヒーはインスタントしかなかったので駅のコンビニで買ってコンコースのベンチでゆっくり飲んだ。

時間潰しに八郎潟へ立ち寄ってみる。

かつて湖だったあたりに向かって歩いて行く。

町役場の建物は立派。パリ・オリンピックでバドミントンのダブルスで銅メダルを取った志田千陽(しだちはる)選手は八郎潟の出身らしい。

見渡す限りの田んぼ。

かつての湖の場所まではまだかなりあるので、このあたりで引き返すことにした。

八郎潟駅から東能代駅まで奥羽本線に乗って、東能代駅で五能線に乗り換える。

五能線はリゾート列車の「しらかみ」がメインで、普通列車は本数が少ない。今日は日曜日なのできっとリゾート列車は団体客で混んでいるだろうし、そもそも今回の旅の目的にはそぐわないので、数少ない普通列車で深浦に向かう。

白神山地への入り口の駅でたくさんの人が降りていったが、その3倍くらいの団体客が乗り込んできた。まさかこんな普通列車にツアー客が大勢乗り込んで来るとは思わなかった。

日本海の海岸線は時たましか見えない。

12時過ぎに深浦駅に到着した。

例の団体ツアー客も深浦で下車したが、駅に迎えに来ていたバスに乗り込んでいた。

駅の近くに焼肉とラーメンの店があった。この先、昼食を取れる店がどのくらいあるかわからないので、ここで食べておくことにした。ラーメンと小どんぶりのセットにしたが、満腹になった。

目的地の「ふかうら文学館」に向かって、おそらく深浦町のメインストリートであろう車道を歩く。商店街のようなものはまったく無し。

ここの町役場も立派。

左側に「深浦町歴史民俗館・美術館」があった。

今日は深浦のホテルに泊まるので、まだまだ時間はたっぷりある。どうやって時間を潰そうかと考えていたところだったので、ちょっと覗いてみることにした。

入り口に看板があって、深浦の3つの施設に入れる共通券が600円(個別だとそれぞれ300円)とのことだったので、それを買って入ることにした。主目的のふかうら文学館もそれに含まれている。

美術館はまったく知らない人の作品。正直、絵画を楽しむ素養は持ち合わせていない。

博物館は昔の生活用具などが並べてあるだけで、あまり興味を惹かれるものはなかった。

唯一、おもしろいと感じたのは、古い新聞のこの広告。

戦前にはこんなものが市販されていたのだ。戦前は売春は合法だった。

ここで深浦の観光案内パンフレットをもらったので、それを眺めながら歩いて行く。

少し行くと猿神鼻洞門。

昔はこのすぐそばまで海だったようで、向こう側へ出るために掘られたトンネルのあと。向こう側は、

深浦港。

目指すふかうら文学館はかつて太宰が泊まった「秋田屋旅館」だった建物。

駅から1km少々だが、疎開の時は駅に到着したのが夜で、太宰の奥さんの津島美知子さんの「回想の太宰治」には、

「・・・・、まだかまだかというほど遠い。家並も見えぬ暗い夜道を、太宰は、同じ列車から降りた中年の人と道連れになって、元気よく先立って歩いてゆくが、そのあとに赤ん坊を背負い、四つの子の手をひいてとぼとぼ従いながら、私は次第に恨みがましい気持になってきた。」

と書かれている。

文学館は2階のみで、この建物は地元の人たちの図書館も兼ねている。

隣の部屋には自筆の手紙や葉書がいくつか展示されていた。10分ほどのビデオもなかなかいい内容だった。

他に大町桂月の間、成田千空の間というのがあったが、いずれも私はまったく知らない人で、さらっと眺めただけ。

お次は風待ち館。

入るまで何のための施設なのかわからなかったのだが、北前船の歴史を展示した施設だった。

深浦は北前船の寄港地として栄えた。

展示内容もビデオの内容も充実していた。特にすごかったのがこれ。

以前にテレビの番組で少し見た記憶があるのだが、今はこんな立派な仏壇を作れる職人はいないという話だったと思う。

予想外の充実した内容に満足して、ロビーで缶コーヒーで休憩してから、すぐ隣りの円覚寺に行った。

このお寺のことは太宰の「津軽」で紹介されている。

宝篋印塔。

本堂。

本堂の裏側に寺宝館があって、有料(500円)で解説付きの案内があるのだが、どうも先客があるようで、まぁいいかなという感じ。

まだ3時半だが、意外と時間潰しができたのでホテルに向かう。

少し歩いたら右手に岡崎夕陽展望所という案内があったのでそちらに向かったみたが、閉鎖されていた。

ここから海の方を見ると弁天島という突起があって、上の方に手すりのようなものが見えるので行けるはず。

海岸の方に降りられる道があったので海岸に出てみたら、弁天島に行けそうに見えた。

もうすぐそこ。

上に上がって海を眺めてみた。

ホテルはこの近くだった。

チェックインしたらさっそく温泉で汗を流した。

鳴子温泉から秋田へ

6/28(土)は新庄から奥羽本線で秋田に向かう。

陸羽東線は昨年7月の大雨の影響で、鳴子温泉から新庄までは代行バスでの運行になっている。

9時前のバスで新庄に向かう。

出発時は10人くらいの乗客だったが、途中でどんどん乗客が増えてきた。まれに途中で下車する人もいた。実は地元の人たちにとっては大切な生活路線なのだ。

わりと混雑した状態になって、10時40分くらいに新庄駅に到着した。新庄駅は新幹線が来ているだけあって立派な建物だった。

山形盆地を北上して1878年7月に新庄に到着したイザベラ・バードは、新庄のことを「みすぼらしい町(a wretched place)と書いている。

戊辰戦争で城下が焼き払われた新庄の戦いから10年くらいなので、まだその余韻が残っていたのであろう。

次の電車まで30分くらいだったので街には出なかったが、駅のコンビニでお昼用のサンドイッチを買った。

次の電車でまずは院内に向かう。

バードは金山を通っているが、奥羽本線は真室川沿いで院内に向かう。

院内で秋田行きに乗り換えて飯詰で下車した。

バードは横手の北にある六郷という集落で、裕福な商人の葬儀に参列する機会を得た。葬儀が執り行われたお寺の名前は記していないが、記述内容から推測すると本覚寺に違いないとのこと。

ちょうど今回の旅のルートの途中なので、下車してこのお寺を訪ねてみようと思った。

駅から片道約4km。次の電車まで2時間少々なので、頑張って歩けば何とか往復できそう。

帽子をかぶってサングラスをして、単調な車道を淡々と歩く。

駅から45分くらいで本覚寺に到着した。

近年に改築されているようで立派な建物である。

本堂からはお経の声が聞こえてきた。

バードは茶屋で日本の着物を借りて、頭巾をかぶって参列したため、外国人とは気づかれずにすんだ。

葬儀のことは詳細に記述しており、「六郷のお寺は非常に美しい」と記している。

時間に余裕があるので帰りはあまり焦らずに同じ道を戻った。上部に雲のかかった鳥海山が正面に見えた。

そして次の電車で二駅先の神宮寺でまた途中下車。

バードはここから船で雄物川を下って秋田(その当時は久保田)に向かっている。

次の電車は2時間後と思っていたのだが、駅の時刻表を見たら1時間後に秋田行きがあった。雄物川まで片道1.5kmくらいなので1時間あれば往復できそうだ。

駅から15分ほどで川の堤防に出た。

河川敷の大きなグラウンドを抜けて、雄物川のすぐそばまで行った。

列車や車などの陸上交通が発達するまでは、船は最重要の交通機関だった。バードも「陸路だったら2日の長旅になったところを、わずか9時間が走破できた」と書いている。

今日、最後の電車で秋田へ。

午後5時過ぎに秋田駅に到着した。ここも立派な駅だが、甲府、郡山、仙台と、どこも同じ印象。どこに行ってもミニ東京ばかりだ。

まずはホテルにチェックイン。

ここは老夫婦とアルバイトで営業しているように見える小ぢんまりしたホテル。

私はホテルに泊まる時はいつもネットの予約サイトで予約するのだが、予約の際に住所、氏名などの個人情報を提供してるにもかかわらず、ほとんどのホテルでチェックイン時にもう一度住所氏名等を書かされる。

なぜこんな手間なことをしなければならないのかいつも不愉快に感じていて、こういうのが日本がデジタル化が遅れていると言われる一つの例ではないかと感じているのだが、今回の旅で唯一、このホテルだけがそういう二度手間をされなくて済んだ。

どう見ても顧客データをデジタル管理しているであろうと思われる大手のチェーンでもほとんど二度手間やらされるのに、こんな小さなホテルがそうではないというのはちょっと不思議な感じがするが、これまでの記憶でも意外と小規模の宿泊施設の方が二度手間やらされない傾向にあるような気がする。

一息ついてから夕食に出た。

せっかく秋田に来たので地元の料理を食べたいと思って、ここまで来る時にそういうタイプの店に目をつけておいた。ただ、土曜日の夜なので一人で入れるかどうか心配だったのだが、意外と店は混んでいなくてすんなり入れた。

今日はわりと歩いたので、ビールのあとには地酒でも楽しもうと思って、きりたんぽなどの地元料理のセットものを注文した。

しかし出てきた料理は非常に貧弱なものだった。がっかりして酒は飲まずに店を出た。

なぜこんなに空いていたのかよくわかった。おそらく地元の人は知っているから入らないのだろう。

何となく、こういう大きな町の方が質の悪い店が多いような気がする。

郡山から鳴子温泉へ

6/27(金)は鳴子温泉まで。

時間に余裕があるので仙台で時間潰ししようと思って、8時42分の電車で郡山を出て、福島と白石で乗り継いだ。

仙台には11時過ぎに到着した。駅ビルは巨大。

次に電車まで1時間半ほどあるので、仙台市歴史民俗資料館にでも行ってみようと思った。

駅前のメインストリートを歩いて榴岡(つつじがおか)公園へ。

大きな公園で、資料館は入った場所のほぼ反対側にあった。

旧陸軍の兵舎だった建物。

しかしすでに次の電車まで1時間くらいしかなかったので、入るのは諦めて戻った。

何とか昼食はすませたいと思って駅のそばのフードコートでまぐろねぎトロ丼をかきこんで、発車の数分前に小牛田(こごた)行きの電車に乗り込んだ。

電車はすでに満席状態だったが、二駅くらいでかなりの人が降りて、ほどなく座ることができた。

これまで上野からずっと東北本線で来たが、小牛田で陸羽東線に乗り換える。

最初は乗客は少なかったが、古川駅で東北新幹線と接続しているので、ここでたくさんのお客さんが乗り込んできた。

みんな終着の鳴子温泉まで行くのだろうと思っていたが、意外と途中の駅で降りるひとがいた。

鳴子温泉には午後3時過ぎに到着した。

鳴子温泉は2年前に来た

この時の印象がわりと良かったので、今回はぜひとももう一度ここで泊まりたいと思った。

まずは前回は訪れなかった温泉神社に行ってみる。

奈良時代からある温泉で、神社も式内社で格式が高い。

本殿。

少し戻って、ホテルにチェックイン。前回も泊まったリゾートホテル。

ホテルのすぐそばにある共同浴場のタダ券がもらえたので、一息ついてから行ってみた。

ここ「滝の湯」は湯浴みするだけのところで、小ぶりの浴槽が二つあるだけ。お湯は濁った濃厚な硫黄泉で気持ちよかったが、いささか熱かった。

ホテルに戻ってから夕食前にさらにもう一度風呂に行った。

食事はバイキングで、前回はアルコールもフリーだったが今回はアルコールは別料金になっていた。

満腹感がおさまったらさらにもうひと風呂。

前回もそうだったが、こういうホテルにしてはめずらしくWiFiのサービスが無い。

郡山へ

6/26(木)は甲府から福島県の郡山まで行く。郡山には特に目的があるわけではなく、普通列車を乗り継いで行くのに時間がちょうど良かったから。

前日にコンビニで買っておいたパンと牛乳、そしてコーヒーの朝食を取って、8時前の甲府発高尾行きの列車に乗り込んだ。

1時間半ほどで高尾に到着して、ここで東京行きの特別快速に乗り換える。

出発時点で満席になった。

通勤通学の時間帯は過ぎているのだが、関西での通勤ラッシュなみの混み方だった。

新宿から湘南新宿ラインで宇都宮に向かえばだいぶ時間短縮できるのだが、太宰は上野から東北本線に乗っているので、その経路を辿ることにする。

なつかしの母校(東京理科大学)。建物は50年前とは様変わりしている。

1時間ほどで東京駅に到着した。東京駅の構内はまるで百貨店のよう。昼食用におにぎりを買った。

東北本線で宇都宮へ。

2時間かかってようやく宇都宮に着いた。

すでに1時を少し過ぎているのだが、わりと乗客が多かったのでおにぎりを食べるのははばかられた。

次の黒磯行きは北に向かうのでおそらく空いているだろうと思っていたら、何と高校生の大群で大混雑。何でこんな時間にこんなにたくさんの高校生が?

そのうちにどこかの駅でどさっと降りていくのだろうと思っていたが、実は高校は複数あって、少しずつ降りて行くという状態だった。

5駅くらい行ったところで何とか座れたが、終着の黒磯まで乗っていた高校生もいたし、途中の駅で乗ってくる高校生もいた。何でこんな時間に?

この路線は避暑地の那須高原のそばを通っていて、まさかこんな場所に高校がいくつもあるとは思わなかった。

黒磯には2時過ぎに着いた。乗り換え時間が小一時間あるので、駅の待合室でようやくおにぎりにありついた。

そして白河へ向かう。今度は空いていた。

白河と言えばやはり「白河の関」が有名。奈良時代から重要な関として位置付けられていたが、現代人にとってはやはり高校野球だろう。

2022年の夏の大会で仙台育英高校が優勝するまで、東北勢は白河の関を越えられないと言われてきた。東北を飛び越して北海道の高校は何度か優勝しているのだが。

その白河で今日最後の列車の郡山行きに乗り換える。

午後4時半にようやく郡山駅に到着した。甲府から360kmほどの列車旅だった。

駅の近くのホテルにチェックイン。

今日は電車に乗りっぱなしでまったく運動していないので、夕食は駅のフードコートでラーメンと小どんぶりのセットで簡単に済ませた。喜多方ラーメンということだったが私はそれほどラーメン通ではないので、違いはあまりよくわからなかった。

甲府へ

太宰治は戦時中、東京の三鷹の借家で暮らしていた。

次第に空襲が激しくなり、妻子は奥さんの実家の甲府に疎開したが、三鷹のあたりも空襲が激しくなってきたため、本人も甲府に疎開することになった。

しかしその甲府にも米軍機がやってきて、疎開先の家が空襲の被害にあって住む家が無くなり、しばらく奥さんの親戚の家などを転々として過ごしたが、そんな生活をいつまでも続けるわけにはいかず、致し方なく太宰の生まれ故郷の津軽に一家で疎開することにした。

その時のことが「たずねびと」という作品に書かれている。

ここでの出来事はおそらく創作だと思われるが、記述されている津軽への道のりは真実だと思う。

その当時は上野から青森までの急行列車というのが運行されていたのだが、その頃の電車の混雑ぶりは殺人的で、小さな子供を二人連れた家族連れが乗り込めるような状態ではなかった。

やむなく途中までの普通列車を乗り継いで仙台の先の小牛田(こごた)までたどり着いたのだが、ここに至る途中での出来事がこの作品の舞台になっている。

ここまでは東北本線でやってきたのだが、青森の方も空襲で、このまま東北本線で行っても青森まで到達できるかどうかわからない状況だったので、ここから陸羽東線で山形の新庄に出て、そこから奥羽本線で秋田を経由して東能代へ。

ここで五能線に乗り換えて五所川原まで行って、そこから津軽鉄道で金木に至るという経路で実家を目指すことにした。

この作品を読んだのはわりと最近のことなのだが、読み終わってからこの経路を自分も電車で辿ってみたいという気持ちがにわかに湧いてきた。それも新幹線や特急は使わずに普通列車で。

太宰は4日かけて甲府から津軽まで行ったのだが、私は甲府から5日かけて行く行程にした。出発地点の甲府までは新幹線と特急で行く。

ということで6/25(水)に京都駅から新幹線に乗って、まずは名古屋駅にやってきた。

少し早めに着いて、きしめんを駅の立ち食いで食べた。

そして「しなの」で塩尻へ。

電車旅の特権でビールを買って乗り込んだのだが、飲んだ後の気分は今ひとつだった。

塩尻では乗り換え時間が3分しかないので心配だったが、何とか「あずさ」に乗り込むことができた。

「あずさ」ではめずらしく車内販売が回ってきた。まだ車内販売が残っている列車があるのだ。

韮崎あたりでは一時強い雨だったが、甲府に近づくにつれて止んできた。

甲府には午後3時頃に到着した。甲府に来るのは2年ぶり

コンビニのコーヒーを飲んで、武田信玄にご挨拶。

時間があるので舞鶴城へ。当然、信玄のお城と思っていたが、実は武田家滅亡後の秀吉政権の時代の築城とのこと。

鉄門(くろがねもん)。

天守台。

南の方を望むが富士山は見えない。

金峰山や国師も見えず。暑くてたまらず、ベンチに腰掛けて休憩した。

稲荷櫓はちょうど入り口が閉門されてしまった。

そしてホテルにチェックイン。

一息ついてから夕食は駅のそばまで戻って、前回行ったほうとうの店に行った。

「ほうとう」は「きしめん」の太いバージョンという感じで、お昼とかぶってしまった。

前回も苦労して完食したのだが、今日はビールを飲まなかったにもかかわらず完食できなかった。

一体山、柳生街道

6/22(日)は奈良北部の一体山に登って、その後、柳生街道を歩いてきた。この山は名前を聞くのも初めて。

近鉄奈良駅に集合して、バスで大柳生口へ。

しばらく車道を歩く。正面奥が一体山?

夜支布山口神社に参拝。

荒れた林道を行く。

マムシ!!

出発して1時間半ほどで一体山の山頂(594.8m)に到着した。

山頂には役行者の像。

そばの鉄塔のところで昼食にした。

同じ道を引き返す。

京都方面の眺め。

ホタルブクロ。

たんぼのそばにガマの穂。

南明寺に立ち寄ったがロープが張られていて入れず。以前に個人的に訪れた時もそうだった。

そして「おふじの井戸」。

それから20分ほどしっかり登って、かえりばさ峠に到着した。

少し下って、疱瘡地蔵。

そして柳生の集落に出た。

さらに天乃石立神社に寄り道。

さらに奥には柳生一刀石

芳徳寺は以前にも訪れていたがまったく記憶無し。

前回は中には入らなかったが、今日は入山料を払って入った。

柳生家のお墓。

荒れた道を下って車道に出て、柳生のバス停にゴールした。

それにしても蒸し暑い一日だった。自動販売機で500mlのジュースを買って、一気に飲み干した。

大文字山

6/11(水)は京都一周トレイルの講座で雨の中を大文字山へ行ってきた。

地下鉄の蹴上駅に集合して、まずは蹴上の発電所を眺める。煉瓦造りの建物は今は稼働していないが、後ろの白い建物は現役。

三条通りを渡って「ねじりまんぼ」を通る。

義経地蔵。

源義経が鞍馬山から奥州へ向かう道中の安全祈願に日向大神宮を参拝した。その途中東海道中の日ノ岡峠にて、平家の関原与一ら9人の一団とすれ違う。その際、一団の馬が蹴り上げた泥水を義経にかけてしまい、衣服を汚してしまう。謝ることなく通り過ぎた一団の無礼に怒り、義経は9人をその場で切り殺したと伝えられている。

切り殺された9人の菩提を弔うために村人が石仏を安置したという話と、我にかえった義経が自分の行為を悔やんで村人に弔いを頼んだという話も。

「蹴上」の地名の由来はこの話しから来ているとか。

インクライン。

そして参道を通って日向大神宮へ。

石段を上がってまずは外宮。

さらに奥の内宮へ。

山道に入るとまずは天の岩戸。

木の根の張った道を進んで思案処へ。

いつもの展望場所は木も繁ってきて、さらに今日は雨で雲がかかって何も見えないので通過。

日向大神宮から1時間半ほどで大文字山手前の分岐まで来た。

そしていつものように大文字山の山頂(465.2m)で昼食にした。ここはいつも人混みだが、さすがにこの雨では誰もいない。

展望はゼロ。

京都一周トレイルのコースは先ほどの分岐から沢筋を鹿ヶ谷の方へ下るのだが、今日は雨で沢筋の道が歩きにくそうなので、火床の方に下ることにした。

火床の最上部に出たが相変わらず何も見えず。

石段を下って大文字の文字の真ん中へ。

ガスが晴れてきました。

「大」の字の左の払いを辿って仙人束へ。

そして銀閣寺前に下山した。

あとは参道を通って公衆トイレの前で解散した。

その後、私はかねてから一度訪ねてみたいと思っていた法然院の谷崎潤一郎の墓に向かった。

法然院は京都一周トレイルのコースのそばなのでこれまでに何度も立ち寄っているが、講座中なので個人的な寄り道はできない。

お墓のエリアに入ったがなかなか見つからず、ネットで検索してようやく探し当てることができた。

谷崎自筆の「寂」と彫られている左の石が谷崎潤一郎の墓。

右の「空」と彫られているのが谷崎の最後の妻の松子夫人の妹の重子夫妻の墓。

これまでに著名人のお墓は何度となく訪れているが、いずれも案内板のようなものがあって、お墓には誰かがお参りしているような花などが添えられていたのだが、ここに関してはそういうものが一切なく、もの寂しい雰囲気だった。

谷崎潤一郎ほどの作家のお墓とは思えない「寂しさ」を感じた。

眼鏡山

6/2(月)は講座で生駒北部の室池園地そばの眼鏡山へ行ってきた。室池園地は過去に何十回も訪れているがいつも生駒縦走の途中の素通りで、あとは講座で何度か歩いたくらい。こんな山があることはまったく知らなかった。

JR四条畷駅に集合して、まずは四條畷神社に向かう。

本殿にお参り。祭神は楠木正行。楠木正成の息子。

蟹ヶ坂ハイキングコースに向かう。大阪市街地を見下ろす。

龍尾寺(りゅうびじ)に寄り道。

本堂。

未舗装林道をしばらく歩いて、ようやく山道に入る。

手すりのついた急な階段を登ったりして、室池園地のエリアに入った。

トイレのそばの広場で昼食にした。

ハコネウツギ。

公園の車道から分かれて山道らしい道を少し登って、眼鏡山に到着した。三角点(361.1m)もあります。

少し戻って広場で休憩。

しばらく車道を歩いて、堂尾池の方に向かう。昔、いつも室池園地に入る時に通っていた道は通れなくなっていた。

堂尾池のそばで一休み。

キショウブ。

午後2時過ぎに田原台のバス停で解散した。

高島・乗鞍岳

5/25(日)は講座で高島トレイルの乗鞍岳へ行ってきた。終日、小雨だった。

JRマキノ駅からバスで国境スキー場(今は別の名称になっている)へ。

ここが高島トレイルの起点。

駐車場への車道を少し歩いてからゲレンデの斜面に入る。

スキーでは何度も滑っているが、無雪期に歩くのは初めて。

20分ほどの登りでゲレンデトップへ。

そして山道に入る。

30分ほどがっつり登って稜線に出た。

なだらかな稜線を30分ほどで乗鞍岳の山頂(865.1m)に到着した。

天気が良ければ気持ちのいい稜線なのだが、今日は生憎の天候。

鉄塔のある広い場所で昼食にした。

その後、稜線から少し分かれた芦原岳へ立ち寄り。

また稜線から少し離れて猿ヶ馬場山(651.5m)へ。ここは三角点がある。

午後1時半頃に黒河(くろこ)峠に降り立った。

そばの東屋でトイレ休憩。

あとはひたすら林道を歩いて白谷のバス停に向かう。

3時前、予定よりも1時間ほど早くバス停に到着することができた。

予定よりも1本早いバスで帰ることができた。

天河大辨財天社

5/23(金)はいよいよ奥駆道南部に向かう。

白谷トンネル入り口手前の行仙岳登山口のそばのスペースに車を停めて、6時頃に出発した。

最初は急な階段。

さっそく階段を登り始めたが、出だしから体調が非常に悪い。脚が重くて力が入らない。

昨年末に心電図の検査で不整脈が発覚した。ここ1〜2年、たまに身体が重くてだるいということがあったが、どうも不整脈が原因だったもよう。1月の北海道も今ひとつ気力が出なかったが、これも不整脈が原因だったのかも知れない。

医者から「カテーテル・アブレーション」という治療を勧められて、3月の末に施術を受けた。

これでもう安心できるのかと思いきや、残念ながらその後の体調は今ひとつ芳しくない。

日常生活においては改善しているように思われるが、運動時は相変わらず身体が重くて、長年の日課だったジョギングもこのところ散歩に切り替えている。

講座の仕事は問題なくこなせているのだが、今日はいきなり急な階段登りだったせいか非常に調子が悪い。

階段が終わってなだらかな登りになったが、それでも復調の兆しが感じられない。

せめて行仙岳まででも思ったが標高差が400mくらいあるので、この調子ではとても辿り着けそうにない。

出発してまだ10分も経たないくらいだが、無理して進んでさらに体調が悪化したら下れなくなってしまう。携帯は圏外だし、平日のこんな場所では人に出会う可能性は低い。

また来ようと思えばいつでも来られるくらいの場所なので、今日は諦めることにした。

車に戻って後片付けをしてもまだ7時前。このまま往路を戻るだけではあまりにも虚しいので、ひとまず十津川村の方に向かうことにした。

もし対向車が来たらどうしようかとハラハラしながら1時間以上走って、ようやく十津川村まで辿り着いた。

できれば温泉に入りたかったのだが、さすがにこの時間では空いているところが見つからないので、とりあえず北に向かう。

このまま北上すると五條市に出るのだが、ふと思いついて天川村の天河神社(天河大辨財天社)に行ってみようと思った。

途中から天川村に向かう道に入ったが、これもまた離合不可能な狭い道が延々と続いた。何度か対向車に出会ったが何とかすれ違うことができた。

9時過ぎにようやく天河神社に到着した。平日の午前中だが、そこそこの参拝客がおられた。神社の職員も忙しそうだった。

石段を上がって、本殿。

反対側に降りると役行者堂。

すぐそばに天石。

戻って、本殿の少し下には五社殿。

実はここは南朝とのつながりが濃いらしいのだが、そのことは帰ってから知った。残念。

行動食を食べたりして時間潰しをして、橿原市でようやく温泉に入ることができた。

地下から汲み上げた炭酸泉で、浸かっていると肌に小さな泡がついてくる。漢方釜風呂というのがあって入ってみたが、薬草の香りのするサウナだった。寝そべると背中にお湯のながれる寝湯もあって、なかなか楽しめる温泉だった。

平日の午前中だというのに結構な数の入浴客がいて、しかも若い人たちもそこそこいたのが意外だった。

あとはのんびりと帰るだけでした。