甲府から帰宅

6/24(土)はもう家に帰るだけ。身延線で静岡に出て、あとは新幹線で切符を買っている。

甲府駅のホームからは甲府城が見える。

ホームに電車がやってきた。特急の指定席を買っている。

席に座っていたら後からやってきた男性が席の確認をしてきた。何と同じ席の切符が発行されている。

その男性が車掌に問い合わせて、別の席に座られることになった。こんなこともあるのかとちょっとびっくりした。

ひょっとしたら富士山が眺められるかもと思って富士山側の席をとったが、残念ながらちらりとも見えなかった。地形的に晴れていても見えなかったのかも知れない。今回は富士山は一度も眺めることができなかった。

そして静岡駅で新幹線に乗り換え。

自動改札機に切符を入れたところ、有効期限が切れているという表示で止められてしまった。えっと思って特急券を見てみたら何と昨日の日付になっている。

昨日の朝に甲府駅のみどりの窓口で特急券だけ購入したのだが、窓口の人が間違って昨日の切符を発行したようだった。今朝、甲府駅に入る時は改札機に乗車券だけを入れるようにという表記があったので、特急券は手に持ったまま入った。

今朝、同じ席の切符が発行されていたのはこれが原因だったのだ。

駅員に伝えたら甲府駅に問い合わせて、私が購入したときに記入した用紙は間違いなく今日の日付になっていたことを確認して、今日の特急券を再発行してくれて事なきを得た。

やれやれということで缶ビールを買って新幹線に乗り込んだ。

御坂峠、天上山、甲府

6/23(金)はいよいよ太宰治ゆかりの地探訪の実質最終日。

まずはレンタカーで御坂峠に向かう。

できれば公共交通機関を利用したかったのだが、御坂峠へのバスは河口湖から1日1便のみ。しかもその運行時刻は信じられないもので、午前中に河口湖を出て御坂峠の天下茶屋まで行って、即刻折り返すというもの。つまりバスで来たら御坂峠で時間を使うことができないし、滞在したらその日には帰ることができない。しかも天下茶屋は宿泊はできない。富士急はいったいどう考えているのだろうか。

河口湖へ向かう R137 の途中から旧道に入る。この道は太宰が天下茶屋に滞在した頃には甲府からバスが走っていて、老婆と乗り合わせた時のことが「富嶽百景」で述べられている。

甲府から1時間ほどで御坂峠へ着いた。

10時前で、まだ天下茶屋は開いていなかった。

本当の御坂峠へ向かう山道を少し登ると太宰の碑が見つかった。

「富士には

月見草が

よく似合ふ」

残念ながら富士山はまったく見えず。

お次は 30 分足らずで河口湖へ。河口湖は 2016 年の UTMF 以来。ただしその時、滞在した場所からは少し離れているけれど。

天上山にある太宰の碑を見ることが目的で、時間によってはロープウェイで上がってもいいと思っていたのだが、とんでもない混雑ぶり。

大半が中国人の観光客の模様。レンタカーが最短でも6時間だったので時間があるので歩いて登ることにする。

細い登り坂があったのでチラッと見てみたらハイキングコースの案内板があった。

少し登ると眼下に河口湖。あの橋は 35 年くらい前に河口湖のマラソン大会で走って渡ったことを覚えている。

道はしっかり整備されている。

麓から 20 分くらい登ったところで前方に何やら気になるものが目に入って、まさかと思ったら目的の太宰の碑だった。

「惚れたが

  悪いか」

太宰の作品の中で私がもっとも好きなのは「お伽草子」で、中でも「カチカチ山」がお気に入りだ。その最後の方の出てくる有名なセリフ。人気のある「人間失格」や「斜陽」、「走れメロス」などはあまり好きではない。

それにしてもこの碑は天上山の公園にあるものとばかり思っていたのだが、もし歩いて登らなかったら出会うことができなかったし、麓とロープウェイの山上駅の中間くらいの場所にあるので上から下るにしてもそこそこ歩かなければならない。おまけに案内板のようなものはまったく見かけなかった。

今回の旅の目的で大きなものの二つだった御坂峠の碑と天上山の碑が見られて、安堵感と満足感にひたりながら登り続けた。

20分足らずでロープウェイの山上駅が見えた。

公園にはこんな看板が。

このあたりは大変な混雑で、観光客のほとんどは中国人のよう。

やぐらは閉鎖されていた。

公園から数分で天上山の山頂(1139.9m)に着いた。標高 1000m を超える山だが登山口が 800m くらいはあるので登りは大したことはない。

展望は無いので早々に下山する。

レンタカーの利用時間を1時間以上残して、午後1時半頃に甲府に戻ってきた。途中で「天下茶屋営業中」という看板が目に入った。

駅のそばのモスバーガーでハンバーガーを食べて、甲府市内を巡る後半戦へ。

まずは太宰治僑居(きょうきょ)跡へ。

字の読み方がわからなくてあとからスマホで調べた。

ここで過ごしたのは8ヶ月間くらいとのこと。

結婚するまでのあいだ下宿していた寿館という家のそばにある清運寺。

太宰のパネルが置かれていた。ちょっと不気味。

なぜか加藤清正を祀った清正公堂がある。

寿館はこのあたりと思われるが、昔の建物は戦災で焼けてしまっている。

よく通ったという銭湯の喜久之湯。

このあたりをよく散歩したという御崎神社。

どう見てもお寺にしか見えないのだがやっぱり神社なのです。

最後に湯村温泉へ。

20分くらい歩いてようやく湯村温泉へ。兵庫県の湯村温泉とは関係ありません。

そして太宰がよく行った「明治」に到着。

少し戻ったところにある資料室は閉まっていた。

駅まで帰るのに 30 分くらいかかった。

これで今回の旅は完了した。明日は帰るのみである。

吉祥寺、三鷹

私は学生時代、吉祥寺で三年間過ごした。しかしその後 40 年くらい訪れたことがなかった。卒業後も出張などで東京へは何度も行ったが、吉祥寺は都心から西に少し離れているので、足を延ばす機会がなかった。

今日の目的地は三鷹だが吉祥寺はたった一駅手前なので、この機会に懐かしの街を訪ねてみることにした。

6/22(木)は新宿のカプセルホテルを出て吉祥寺へ。JRの新宿駅はすっかり様変わりしていて、どういう構造になっているのかさっぱりわからなかった。

ここも駅の構造はすっかり変わってしまっていたが、駅前のアーケード街のサンロードはそのままの名称で残っていた。、

学生時代の通学では住宅街を歩いていたが、そちらに行くと曲がる場所がわからなくなってしまうので、バス通りの五日市街道に出ることにした。

五日市街道に出る手前にあったスーパーの西友がまだ残っていたのはちょっとびっくりした。

五日市街道を西に向かう。

住んでいたアパートは細い道を少し右に入ったところにある。曲がり角にあったセブンイレブンがローソンに変わっていたが、曲がる場所はすぐにわかった。

住んでいた頃は大家さんの大きな家が道路に面していて、アパートはその裏側に建てられていたのだが、今は道路に面したところに小さなマンションのようなものが建っていて、裏は民家になっていた。

アパートの裏側に銭湯があったのだが、さすがにその銭湯は無くなっていた。

駅に戻るのは住宅街を歩いた。15分ほど歩いて駅に戻ったのだが、その頃、週に3回くらいは通ったジャズ喫茶がどうなっているか行ってみようと思った。

この店は歓楽街の細い道のどこかにあって、もはや場所の記憶は無い。それに残っているかどうかもわからない。

ヨドバシカメラがあって、その裏のあたりの細い道を歩いていたら、何と発見!! 「MEG」が残っていました。

しかし昔のようにジャズを前面に出したような表記は無く、ジャズ喫茶というのはもはや絶滅危惧種になっているらしい。

満足して三鷹へ向かった。

まずは線路沿いに西に向かって跨線橋へ。残っているのかどうか心配だったがまだありました。

階段のそばに朽ちた案内板。

三鷹は太宰の作家生活で一番長く過ごした地で、ゆかりの場所もたくさんあって、おそらく観光資源として利用しているのであろうが、随所にこういう案内板が設置されている。

散策ルートのパンフレットに従って、「中鉢家跡」、「うなぎ若松屋跡」、「田辺肉店離れ跡」を通って「野川家跡」へ。

ここは二階に山崎富栄さんが下宿していた場所で、晩年の太宰はそこを仕事場所にしていた。入水の時もこの部屋に遺書などを置いてここから玉川上水に向かった。

そしてすぐ近くには「千草跡」。

ここの二階も一時期、仕事場所にしていた。

そして玉川上水沿いの「風の散歩道」に出る。

上水側はこのように木が茂っているのだが、一カ所だけ流れが見える場所があった。

今はこの程度の流れだが、その当時は人食い川と言われるほど水量が多かったらしい。

しばらく行くと上水と反対側の道路のそばに銘板。

もう少し進むとようやく「玉鹿石(ぎょっかせき)」が見つかった。

このあたりに二人で川に入った痕跡が残っていたらしい。

さて、上水沿いの道から分かれて「みたか井心(せいしん)亭」へ。

ここは三鷹市が所有する文化施設だが、ここの庭には太宰の家にあった百日紅の木が移植されている。

家はこの向いあたりにあったそうだが、案内板などは見つからず。

今度は井の頭公園のそばを通ってまた玉川上水の新橋へ。

昭和23年6月14日に太宰の行方不明が報じられて、6月19日にこの新橋の下で紐に結ばれた二人の遺体が発見された。

井の頭公園の方に戻って公園のベンチで一休みしてからまずは太宰家が通った銭湯の「連雀湯跡」の前を通って禅林寺へ。

案内板に従って墓地に入ったらすぐに見つかった。

19日が桜桃忌だったせいだろう、立派なお花がたくさん供えられていた。私は手ぶらでした。

ちょうど向かいには森鴎外のお墓がある。

散策マップに従って駅の方に戻る。

桜井浜江さんの記念ギャラリーの前を通って、朝に通った時はまだ開館前だった「太宰治文学サロン」へ。

小さなスペースに太宰関連の書物がたくさん置かれていた。椅子と小さなテーブルがいくつか用意されていて、そこでじっくり読むこともできる。飲み物も売っている。入場無料。

何冊かの本を手に取ってパラパラとめくってみて、クリアファイルとコースターを買って出た。

ちょうど昼時で、ずっと歩き回って疲れてきたので、近くのファミレスで昼食にした。旅行クーポンが使えた。

それから駅前のビルに入っている三鷹市美術ギャラリーへ。ちょうど今、太宰関連の展示をやっている。

太宰が住んでいた家の間取りが再現されていた。6畳、4畳半、3畳という小さな借家で、作家という職業にもかかわらず蔵書などはほとんど無かったらしい。

愛用したマントもかけられていた。たぶん本物ではないと思う。

ここも入場は無料だったが「太宰治 三鷹とともに」という、5年前の太宰没後 70 年の記念行事の時に発行された冊子を 1000 円で購入した。なかなか充実した内容だった。

旅行クーポンがまだ 1000 円ほど残っていて、これは東京でしか使えないので、駅のそばのカフェでコーヒーにケーキとしゃれこんだ。

東京の訪問予定地はすべて訪れたので、このあとは中央線で甲府へ向かう。特急で急いで行っても中途半端に時間が余るだけなので普通列車で行った。

甲府に着いたのは4時半くらい。今日は天気予報では雨模様とのことだったが三鷹では幸い、時々パラパラときたくらいで傘はささずにすんだが、甲府は本降りになっていた。

明日は河口湖方面にレンタカーで行く予定なのでレンタカーを予約しておいた。

駅のそばに大きな武田信玄像。

そして駅の反対側のビジネスホテルにチェックイン。

今度は山梨県の旅行クーポンがもらえたので、夕食はクーポンの使える「ほうとう」の店に入った。

ほうとうは別府大分毎日マラソンで別府へ行った時に「ほうちょうだんご汁」というのを食べたのが印象に残っているのだが、一昨年の秋に行った時には昔の店は無くなっていた。

この店のほうとうも具だくさんのボリュームたっぷりで、昼食のラーメン、餃子とケーキがまだ胃袋に残っている状態だったので最後は意地で完食した。

下曽我、江ノ島、東京

6/21(水)は熱海からまず国府津(こうず)へ行って、ここで御殿場線に乗り換えて一駅の下曽我へ。

下曽我は梅林が有名だそうだがもちろん今は梅の季節ではない。それよりも目的は「斜陽」の元になった日記を提供した太田静子さんが暮らしておられた雄山荘という別荘の跡を訪ねること。

太宰のファンだった文学好きの静子さんが太宰に手紙を送って、その後、太宰から「日記を書くといい」というアドバイスを受けて日記をつけていた。

そしていつの間にやら二人は恋愛関係になる。その頃、太宰はすでに結婚して子供もいた。

昭和 22 年に太宰はここ雄山荘を訪れて日記を受け取る。そしてその時をきっかけに静子さんは太宰の子を身ごもることになる。

そのあと太宰はその日記を持って伊豆の安田屋旅館にこもって「斜陽」を書き上げた。

雄山荘は十数年前に火災で消失しており、建物は残っていない。

簡単な地図を頼りに城前(じょうぜん)寺の前と思われる細い道に入る。

地図によるとこのあたりと思われるのだが案内板も何も無い。

細い道を辿って行ったら城前寺の前に出た。

曾我兄弟の仇討ちという有名な話があるそうだが私は知らない。この寺は曾我家の菩提寺だそうで、しばらく歩いていたら供養塔が現れた。

本数の少ない電車の時間に合わせて駅に戻る。戻る途中で出会った保育園の園児たち(おそらく)。こんなところにこれだけ小さな子供たちが住んでいるのを見てちょっとびっくりした。ひょっとしたら小田原あたりの通勤エリアなのかも。

後から考えるとどうも私の見た雄山荘跡は場所が違っていたのかも知れないと思った。ただ、歩いた経路を考えると城前寺へ行く途中で前を通っているはずなのだが案内板らしきものは目に入らなかった。ちょっと心残りではあるが、いずれにしてももう建物は残っていないので、わざわざ再訪するほどのことでも無いだろう。

国府津からまた東海道線に乗って藤沢へ。藤沢から江ノ電に乗り換えて江ノ島の少し先の腰越に向かう。

江ノ電は平日にもかかわらずずいぶん混雑していた。大半が観光客と思われる。

腰越駅からまずは小動(こゆるぎ)神社を参拝して、それから海岸に回り込んだ。

小動神社は前の断崖の上にあって、この海辺の海岸あたりで昭和5年、太宰 21 歳の時に銀座のカフェの女給だった田辺あつみ(田部シメ子)と薬物心中をはかった。

太宰は一命を取りとめたがあつみは死去した。

このころ太宰は青森の芸者だった小山初代と一緒になる予定で、あつみは他の男性と同居していた。しかも太宰とあつみは知り合ってまだほんのわずかの日しか経っていなかった。

太宰の実家(津島家)はあと始末に大変な苦労をされた模様。

この時に太宰が収容された病院が google map にまだ記載されていたのでそちらに向かってみたが、どうもすでに取り壊されたような様子。

腰越の一つ鎌倉寄りの鎌倉高校前駅から藤沢に戻った。観光客のほとんどは中国人のよう。

さて、久しぶりの東京へ。何かよくわからない経路で1時間足らずで新宿に着いて、山手線に乗り換えて巣鴨へ。やってきたのは染井霊園。

あのソメイヨシノはこのあたりの植木職人たちが開発したのでソメイの名前が付いている。

この霊園には著名人のお墓がたくさんあるのだが、私の目的は松浦武四郎。

武四郎は遺言で、自分が死んだら一畳敷を壊してその木で遺体を焼いて、遺骨は大台ヶ原に播いてほしいと言っていたのだが、一畳敷は文化的価値が高くて壊すのはもったいないということで保存されることになり、遺骨は一部が大台ヶ原に置かれて、ここ染井霊園にお墓が建てられた。

お次は今回の旅の最大の目的の一つの本郷の永泉寺に向かう。地下鉄を乗り継いで江戸川橋で降りて、駅からは 10 分足らずくらいだった。

染井霊園の武四郎は案内板が設置されていたがここはそういうものは一切無く、狭い墓地をうろうろ歩いてようやく見つけた。

太宰と玉川上水に入水した山崎富栄さんの眠っているお墓。6/19 が有名な太宰の桜桃忌で、6/13 はあまり有名ではない白百合忌だったせいか、きれいなお花が供えられていた。

富栄さんは享年が記載されていない。

お墓が見つかるかどうか不安だったので手ぶらでやってきたが、ほんの少し坂を下ったところにコンビニがあったのでそこで小さな缶ビールを買ってきて、墓石にかけてお参りした。

富栄さんは特に文壇からひどい誹謗中傷を受けて、太宰を殺した殺人犯のような汚名をきせられてきたが、そんなことは決して無いと思う。晩年の作品は富栄さんの助力無しには生まれなかったということは彼女の残した日記を読めば明らかだ。

またまた地下鉄を乗り継いで末広町へ。場所の関係で前後してしまったがここには松浦武四郎が暮らした家の跡がある。

おおきな楠のふもとに銘板が建てられている。

さて、最後に銀座のバー、ルパンへ。Lupin の看板はもっと赤色だったのだけれど・・・。

何と言っても有名なのがこの写真。一度ビルが建て替えられているけれど店の作りはほとんど昔のままだそうです。何と、黒電話が現役で働いていました。

ビール小瓶とマティーニ、ウインナーで 5000 円弱。安くはないけれど銀座だし、明瞭会計です。

カウンターと他には数席くらいの小さな店で、平日の6時くらいに入ったけれどすでに7割くらいは席が埋まっていました。

店を出てもまだ明るい。

今宵の宿は新宿へ。

久しぶりのカプセルホテル。ソフトドリンクやごはん、つけもの、味噌汁が食べ放題。夜はアルコールも提供されていて、非常にコストパフォーマンスが高かった。それにカプセルホテルだと大きな風呂に入れるのがいい。

満足の一日でした。

伊豆、三島、熱海

昨年の秋に太宰治ゆかりの地を訪ねて津軽へ行ったが、太宰の作家としての活動はほぼ東京が拠点だった。なので東京を中心としたゆかりの地もぜひ訪れてみたいと思っていた。

ちょうど梅雨の最中で山では天候が不安定なので、このタイミングで街歩きの探訪に出かけることにした。

6/20(火)の早朝の新幹線を乗り継いでまずは静岡県の三島へ。

三島の街歩きは後回しにして伊豆箱根鉄道とバスを乗り継いで三津(みと)の安田屋旅館に向かう。案内では「三津シーパラダイス」という停留所で降りると書かれていたが、手前の「シーパラダイス駐車場」で下車される方がおられて、ふと見たら安田屋旅館の駐車場という看板が目に入ったので私もそこで降りた。

安田屋旅館はここからほんの 100m くらい先のところにあった。

建物は昔のままだそうだ。

太宰は下曽我(翌日訪れる予定)で太田静子さんの日記を借りて、この宿で「斜陽」を執筆した。

「海は、かうして

お座敷に坐って

ゐると、ちやうど

私のお乳のさきに

水平線が

さわるくらゐの

髙さに見えた。」

終点まで行ったバスがちょうど戻ってきたのに乗って、わずか 15 分くらいの滞在で往路と同じ経路で三島に戻った。

太宰は若い頃、何度か三島の知り合いの家の部屋を借りていくつかの作品を執筆している。

三島は街のいたるところに富士山の伏流水が流れている。

この小川沿いには幾人かの作家の碑が並んでいる。

太宰の碑はかなり先にようやくあった。

ここから少し離れたところに、居候していた「坂部武郎酒店」があったのだが、もはや何も残っていない。

ただ、夜はしばしばすぐ近くの「松根印刷所」の二階で寝ていたそうである。

三島駅そばの立ち食いの店で昼食を済ませて、熱海に向かった。

まずは温泉街とは反対の山側に向かう。「人間失格」の執筆のために山崎富栄さんと滞在した起雲閣別館はこの上の方にあった。富栄さんの日記に「どうも、どうも、山の上だけあって全く、「登る」です。」と書かれているように、神戸の山手に勝るとも劣らないくらいの坂を上る。こんなところをショートカットする。

そんな道を 20 分近く登っただろうか、威容な建物が目の前に現れた。

起雲閣別館はもう何年も前に無くなって、「ラ・ヴィ熱海」というリゾートマンションに変身している。

このあたりに碑が置かれているということだったのだが、どこにも見当たらない。建物のそばの朽ちた階段を上がったりしてみたがやはり発見できず。

うろうろしていたらちょうど玄関先でマンションの清掃をされているような女性がおられたので尋ねてみたが、「知らない」とのつれないお返事。

マンションの清掃をされているのであれば隅々までご存知のはずなので、そういう方がご存知ないということであればもう無くなっているのかも知れない。

仕方無いのであきらめて、登ってきた坂を下って線路の反対側の温泉街の方に向かった。

熱海といえば2年ほど前に人災のような大規模土石流が発生したことを思い出した。調べてみたら発生現場はここよりはだいぶ東京寄りの場所だったようだが、こんな地形であれば土砂崩れが発生してもまったく不思議ではないと感じた。

お次は起雲閣の本館へ。ここはかつては大金持ちが別荘として所有していたもので、太宰や何人かの小説家が利用していた建物だが、今は熱海市が所有して文化財として公開している。

入館料(610円)を払って中に入る。太宰が滞在した部屋も当時のままで残っている。

ちなみに太宰は伊豆の安田屋や起雲閣など非常に高級な宿に泊まっているが、自分ではほとんど金を払っていない。たいがい出版社の負担だった。

次には歩道の無い交通量の多い車道をしばらく上って「緑風閣」へ。ここは檀一雄と滞在したところで、檀の作品に「碧魚荘」と書かれているところ。

ずいぶん駅から離れてしまったが、ここから駅の方向に戻る。

檀一雄が太宰を訪ねて行った「村上旅館」。まさか営業はしていないと思うが看板はかかっていた。

このあともう一カ所太宰が滞在していた「旅館八百松」を探してみたが、結局どこかわからず。このあたり?

今日の予定の訪問先はすべて辿ったので、今宵の宿は駅の近くの「伊東園ホテル 熱海館」。

ほぼ 9000 円の宿泊料でバイキング朝夕二食付き。おまけに夜はアルコール類も飲み放題という破格の値段で、料理の質もそんなに悪くなかった。夕方、夜、朝と温泉も3回楽しんで、とても満足できました。

青葉山

6/18(日)は講座で舞鶴の青葉山へ行ってきた。青葉山は今年の1月に個人で行った。しかしながら今回は私は山頂に行くことができなかった。

1月に行った時と同じ経路で、米原まで新幹線を利用して小浜線の青郷(あおのごう)駅に9時半に到着した。

駅前から見た青葉山。

しばらく住宅街を歩いて中山寺に向かう。ホタルブクロ。

駅から30分ほどで中山寺に到着。

このあと登山道に入って、車道を渡って参道に入る。

このあと参道をしばらく登ったところでアクシデント発生。参加者のお一人が体調不良で、熱中症の疑いがあるために下山されることになった。

私はこの方について青郷駅に引き返した。

すでに12時過ぎで、再度登り返して本隊を追いかけるのは時間的に厳しすぎるので、下山予定の松尾寺に向かうことにした。

1月の下山で歩いた車道で松尾寺に向かう。

GPSで現在地は把握しているのだが地図の道の具合がよくわからなくて、ショートカットできるのではないかと思って脇道に入った。おそらく廃校になっているであろう小学校の分校。

この脇の朽ちた土道を進んだところ、ほどなく道が途切れてヤブの中に動物の捕獲網が放置されていた。

これは道ではないと思ったが今さら引き返す気にはなれず、強引にヤブに突入した。

部分的にうるさい竹藪などもあったがGPSで方向を確認しながら進んで、20分ほどで車道に戻った。

後から軌跡を確認したらとんでもない無駄骨だった。とは言ってもロスタイムは10分くらいだろうか。

そのあとは車道をおとなしく20分ほど歩いたら松尾寺の駐車場に到着した。すぐそばには登山道という案内板。

ここを少し進むと青葉山への登山道に出会ったのでここで食事を取ることにした。

いつもの食後のコーヒーはやめておいてすぐに出発して、20分くらい登ったところで下山してきた本隊に出会った。

その後はみなさんと一緒に下山。

松尾寺の本堂は工事中。

元はこんな姿だそうです。

あとは車道で松尾寺駅に向かう。

R27に出たところから青葉山を振り返る。

午後3時半に松尾寺駅に到着して解散した。

横高山、水井山

6/14(水)は講座で比叡山北の横高山、水井山を歩いてきた。

横川のバス停に集合して、10時半に出発した。

30分ほどでせりあい地蔵へ。

急登を這い上がる。

10分少々の登りで横高山の山頂(767m)に到着した。

一旦コルに下ってから今度は水井山への急登。

横高山から30分足らずで水井山(793.9m)に到着して、ここで昼食にした。

昼食後はひたすら下って仰木峠へ。

すっきりしない天気ではあったけれど展望場所から琵琶湖方面を眺めることはできた。

東海自然歩道と同じ道を少し下ってからボーイスカウト道に入る。

急な下りを30分足らずで沢筋に出た。

このあと戸寺のバス停で解散した。

日出ヶ岳、斎宮歴史博物館、松浦武四郎記念館

松浦武四郎のことを知ったのはほんの2年前くらいだったと思う。北海道へ行くようになってからのことだ。

松浦武四郎は幕末から明治にかけて活躍した人で、その当時まだ細部が知られていなかった北海道(その当時は蝦夷)を何度も訪れて、樺太や千島列島にも足跡を残して、アイヌと交流しながら詳細な地図を作り上げた。

明治政府からの依頼を受けて蝦夷と呼ばれていた地に「北海道」という名称を付けた。ただし武四郎が候補に挙げたときは「北加伊道」という字をあてていた。

関連本を読んだり、YouTube にアップされている映像をいくつか見たりして、松阪市にある記念館には一度訪れてみたいと思っていた。

武四郎は晩年に何度か大台ヶ原へ行っている。大台ヶ原に武四郎の碑があることを知ったので、まず大台ヶ原へ行ってこの碑を訪ねて、それから松阪の記念館に行こうと思った。ついでに記念館からさほど遠くないところにある斎宮歴史博物館にも行ってみよう。

6/10(土)の朝5時半に家を出た。天気予報では午前中はまぁまぁだが午後からの降水確率が高くなっている。雨の多い大台ヶ原だが午前中はもってくれることを期待しよう。

途中で朝食のパンを食べて、3時間ほどで大台ヶ原に到着した。

まずは車の中でコーヒーを飲んでから軽装で出発した。武四郎の碑までは30分もあれば行けるだろう。

大台教会のそばを通って行くので教会の看板のところに入る。

すぐに大台教会があった。明かりが見えるので誰か住んでいるのだろう。

1年のうち半分くらいは閉ざされた場所なのだけれど、どういう人たちがここに来るのだろうか。教会とは言うもののキリスト教の教会ではないようで、いわゆる新興宗教の一種のようなものだろうか。

このそばを通って少し行くとゲートがあって、管理人がいた。何と、この先は保護エリアなので入るには許可が必要で、そのためにはお金を払ってレクチャーを受けなければならないとのこと。

いきなりのハプニングでがっくりきたが、そういうルールになっているのであれば仕方ない。とりあえずは戻るしかない。

とにかく今日は諦めるしかないのだが、このまま収穫無しでここを離れるわけにはいかないので、日出ヶ岳だけでも行っておくことにした。

ビジターセンターの横からハイキング道に入る。

25分くらいで展望台に出た。展望台からの熊野灘。

その後、階段を5分ほど登って山頂の展望台へ。

ビジターセンターから30分ほどで日出ヶ岳の山頂(1695.1m)に到着した。ここは3年ぶりくらい。

今度は山頂からの熊野灘。

台高山脈の山々。

西に目を向けると大峰山脈。右に山上ヶ岳。その左の突起が大普賢岳。さらにその左の小さな突起が行者還岳。さらに弥山、八経ヶ岳、そして釈迦ヶ岳。

1時間ほどで日出ヶ岳を往復して、お次は三重に向かう。経路の都合でまずは斎宮歴史博物館へ。途中で昼食を取ったので3時間以上かかった。

斎宮というのは飛鳥時代から南北朝時代くらいまであったもので、天皇の代わりに伊勢神宮に仕える斎王と呼ばれる女性が暮らした施設で、この近くの広大なエリアで様々なものが発掘された。

ちょうど15分ほどのビデオ上映があるとのことで、まずはそれを観賞。

展示室は二つあって、なかなか充実していた。

入場料360円にしては立派な展示だった。

さらにこのあと、2種類あるうちのもう一つのビデオを鑑賞した。

本当ならこのあとそばにある斎宮跡を訪ねたかったのだが、すでに午後3時でこの広大なエリアを歩いていると武四郎記念館が閉まってしまうので、斎宮跡はまたあらためて来ることにして武四郎記念館に向かった。

武四郎記念館までは30分くらいだった。

ここも入場料は360円。

展示室に入ると武四郎が晩年に自宅に作った一畳敷の原寸大模型が展示されていた。

それにしても武四郎の筆まめさには驚かされる。特にスケッチが非常に巧妙で、こんな精細な絵が短時間でよく書けるものだと感心する。武四郎の時代にはそろそろ写真機が登場していたと思うが、一般人が使えるようなものではなかったのだろうと思う。

武四郎よりは少し後の時代になるが、イザベラ・バードも精巧な絵をたくさん残していた。

このパネルは唯一残っている武四郎の写真で、首から下げている飾り物の複製品が展示されていた。

展示室は1カ所のみで、斎宮歴史博物館よりは小ぶりだった。土曜日なので混雑しているのではないかと懸念していたが、実際には見学客は入った時に他に一人おられただけで、私の後には誰も来なかった。どうも一般的な知名度はあまり高くないようだ。

この近くに武四郎が生まれた家が残っているとのことだったが、もう時間も無いのでそこには立ち寄らなかった。

大台ヶ原の武四郎の碑を見ることができなかったのが心残りではあるけれど、武四郎の碑は北海道だけでも10箇所以上あるし、いずれにしても後世の人が建てたもので、観光目的で建てられたようなものも少なくないと思うので、あまり無理してまで訪れるほどのものでもないような気もする。

天王山

6/5(月)は講座で天王山へ行ってきた。天王山はつい先日、個人的に行ったばかり。

JR長岡京駅に集合して、バスで奥海印寺まで行った。

少し住宅街を歩いて、西代里山公園。

しばらく川沿いを進むが、住宅街の近くにしては景観が楽しめる。

公園から15分ほどで西山古道に入る。

通行止めのテープが張られているのに少し進むと西山古道は通行可と表示されている。

しばらく沢沿いを歩く。左側が切れ落ちているような箇所もいくつかあった。

1時間ほど歩いて車道に出る手前で昼食にした。

先日、釈迦岳から下りてきたところに出た。

あとは先日と同じルートで少し車道を歩いてからハイキング道に入る。

一旦車道に出てから天王山へのハイキング道へ。

ササユリが一輪だけ咲いていた。

細い道で天王山の山頂に向かう。

午後1時半に天王山の山頂(270m)に到着した。

実は城跡です。

展望場所から京都の南の方を望む。

さらに下って、石清水八幡宮のあたり。

先日と同じく、稲荷大明神のところに下りてきた。

2時半にJR山崎駅に到着して解散した。

鳥取砂丘

5/16(金)は鳥取砂丘を訪れた。

鳥取駅前発9時過ぎの始発のバスに乗って、20分少々で終着の砂丘会館へ。乗客は外国人観光客が多かった。

階段を上がって砂丘を望む。

トレラン用のゲイターを着用して、馬の背に向かう。

見た目よりは近くて10分くらいで馬の背の上に着いた。日本海が目の前に広がっている。

馬の背からのパノラマ。

海岸まで行ってみようと思ったのだが、意外と傾斜があって帰りが苦労しそうだったので諦めて、馬の背の稜線を辿ってみた。

草が生えているところもあって、ハマヒルガオ。

馬の背の麓のあたりには何故か水の流れがある。

ちょっとした池ができている。

この水の流れはどこから来ているのだろうと思って上流に向かってみたら、水源地はほんの 30m くらい先でした。

これでもう戻ろうと思って歩き出したのだが、時間を見るとまだまだ余裕がある。これなら海岸まで行けるのではないかと思い直して、馬の背よりも低くなっている部分を目指して登り返してみた。

うまい具合にここからの斜面は傾斜が緩そうだった。

無事に海岸までたどり着けて、海の水を舐めてみたらやはりちょっとしょっぱかった。

ラクダ乗りがあるのでちょっと寄り道してみた。

砂丘会館に戻って土産を買った。梨ソフトクリームがおいしいと聞いていたので食べてみようと思ったら500円もしたのでさすがに腰が引けて、まだ次のバスまで少し時間があるので別の土産物屋に立ち寄ってみたら、ここでは梨ソフトが 330 円で売っていた。

500円の店のものとどれくらいの違いがあるのかわからないが、十分満足できる味でした。

さて、午後の列車で京都に向かう。実は特急一本で大阪に帰れるのだが、今回は山陰本線に乗りたいと思って、あえて城崎温泉で別の特急に乗り換えた。

余部(あまるべ)鉄橋をゆっくりと通過中。

もう30年以上も前のことだが、列車がここを通過中に突風に煽られて鉄橋から転落して下にあった水産加工工場を直撃して、電車の車掌と工場の作業員数人が亡くなるという事故があった。列車は回送列車だったので乗客はいなかった。

兄弟赤島。

丸山川の対岸に玄武洞。

京都駅には午後5時過ぎに帰ってきた。

こういう鉄道旅はほとんど初めてと言ってもいいくらいだったが、好天を狙ったおかげもあって非常に楽しめた。ぜひまたどこかへ行ってみたいと思う。