然別湖、十勝牧場展望台、幸福駅

昨日は標高差はそれほどではなかったがわりと長く歩いたので(20km少々)、意外と疲れが残った。今日(7/29)も天気は良さそうだけれどまともな山行きはちょっと厳しいと思ったので、今後の予定を考えた。

大雪のエリアは明日以降は天気が崩れそうで、南の方がまだ良さそうだったので、最後の山としてアポイ岳に向かうことにした。

アポイ岳の登山口は昨年訪れているのだが、ここからはかなりの距離がある(200km以上)。途中で観光しながら一日がかりでのんびり移動しようと思う。

まずはニペソツの登山口へ行くときに横を通り過ぎた然別湖へ。

ここは北海道ではもっとも標高の高いところにある自然湖。

早朝にもかかわらず(朝7時半くらい)中国人の団体観光客(台湾かも?)が来ていた。

近くに白雲山という山があって、わりと簡単に登れそうなので、登山口に行ってみた。

好天の土曜日のせいかすでに駐車スペースはほぼ満杯状態で、あとからもどんどん車が入ってきてハイカーであふれてきた。マイクロバスで来た団体客も。

この人混みに圧倒されて登る気力を無くした。

ネットで適当な場所を探して、次は十勝牧場展望台に向かった。

のどかな風景だがそれにしても暑い。

正面には十勝の山々が望める。地図を見てみたがどこがどの山だかわからず。

反対側は日高の山々が望めて、まさしく展望台だった。

北海道は猛暑で、特に十勝地方は熱中症警戒アラートが発令されているとラジオで伝えている。まさにそのど真ん中を走っていく。

「幸福駅」というのは昔から知っていたけれど、それが帯広にあるということはまったく知らなかった。地図を見たらちょうど通り道のようなところにあるので、立ち寄っていくことにした。

駅の手前にある幸福寺。

異様にきれいで立派な寺だった。

そして幸福交通公園へ。

人混みを恐れたがそれほどではなかった。

しばらく走って道の駅で昼食をとった。

それにしても暑い。車の温度計は 36 度を表示している。日高の方は多少はマシだろうか。

温泉は日高のレジャー施設にある風呂へ行った。

あんまり温泉ぽくないなと感じたが、あとで調べた限りでは温泉とは書いていなかった。

アポイ岳登山口の駐車スペースは車中泊禁止と書かれていて、そばのキャンプ場の駐車場を利用するようにとのことだったので、それに従ってキャンプ場の駐車場に車を停めた。

ここも海から近くて標高が低いので熱帯夜を恐れたが、先日の根室の手前ほどひどくはなかった。

納沙布岬、釧路湿原

7/28(金)も天気は良さそう。寝たのか寝ていないのかわからないような状態で車の外に出ると海に朝陽が昇っていた。

まずは風蓮湖に向かう。以前にドキュメント番組でここのオオハクチョウを見て、一度行ってみたいと思っていた。もちろん、今の季節はハクチョウはいないけど。

風蓮湖のパノラマ。

R244に戻ってしばらく走って「道の駅スワン44ねむろ」に入る。あまり寝ていないせいですぐに眠くなる。

実はここも風蓮湖のすぐそば。

さっきは「別海十景」だったけれどここは「根室十景」。

朝の5時に道の駅を出て、風蓮湖に立ち寄って、途中でちょっと居眠りして、8時に日本最東端の納沙布岬に到着した。

説明板によるとこの灯台は今も点灯しているらしい。

灯台の先から岬の先端を望む。この先は立ち入り禁止になっていた。

ここからのパノラマ。

ここから少し戻ったところに北方領土関連の施設や土産物店などがある。

遠方にうっすらと見えているのは歯舞群島の島。

北方館は時間が早くてまだ開いていなかった。

納沙布岬で一番見たかったのはこれ。

1789年の「クナシリ・メナシの戦い」で71人の和人がアイヌに殺されたことに対する墓碑なのだが、説明板にある通り「和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と史実は異なる」。

次は「ヲンネモトチャシ跡」へ。

「チャシ」はアイヌ語で「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされている。根室にはいくつかのチャシ跡が残っている。

少し離れた場所から見ないと造りはよくわからない。

他にもチャシ跡があったけれどそれらは割愛して、北方原生花園に立ち寄る。

盛夏なので花は少ない。ハマナス?

エゾフウロ。

トリカブト。

このあとは昨年どしゃぶりの雨だった釧路湿原に向かった。

12時半頃に到着してまずはレストランでキーマカレーで腹ごしらえ。

展望台に上がってぐるっと見渡してから散策路に向かった。

昨年、ほとんど何も見えなかったサテライト展望台は今年はいい眺めだった。

パノラマ。

一周回って戻ってきたらシカがいた。

さて、明日も天気が良さそうなのでまた大雪に戻って白雲岳へ向かおうと思う。

また途中で居眠りしながら2時間くらい走って、上士幌の道の駅で温泉に入った。

何度か立ち寄ったセブンイレブンで買い出しをして、6時頃に登山口の銀泉台に到着した。

誰もおらず、スマホは圏外。

廃線めぐり、のち知床へ

7/24(月)は休養日の予定だったので、上士幌の道の駅を出てからまずは廃線めぐりをすることにした。

帯広を出発駅にして R273 と同じような経路で十勝三股まで、1978年まで士幌(しほろ)線という路線があった。

糠平湖のあたりにこの路線の廃線跡がいくつ残っていて、今はそれらを訪ねる観光ツアーも人気になっている。先日、寄り道した「タウシュベツ川橋梁」もその一つ。

今日はそれらを南から辿って北上してみる。

まずは「第三音更川橋梁跡」。各廃線跡には案内板とともに駐車スペースが設定されている。

駐車スペースから少し入ると昔の線路跡。

踏み跡を辿って少し下ると橋梁が見える。上の赤い橋は今の国道。

その後、糠平温泉にある「ひがし大雪自然館」へ。

入場無料だが展示内容は充実していた。昆虫の標本などもたくさんあったし、一泊二日のニペソツ登山の案内ビデオも楽しめた。

近くに士幌線関連の資料などが展示されている「鉄道博物館」があるのだが、残念ながら休館日だった。

廃線の一部を利用してトロッコ列車が運行されているもよう。

お次は「三の沢橋梁」。

線路跡は今は散策路になっている。

踏み跡を辿って沢筋まで下ると、

そしてお次は「五の沢橋梁」。

ここでも踏み跡を下って、

このあたりの橋梁が建設されたのはいずれも私と生まれ年と同じ。ということは私自身もこれくらい劣化しているということ。

そして「タウシュベツ川橋梁」を再訪。

実は上士幌駅以北のこのあたりの路線は音更(おとさら)線と呼ばれていた。

タウシュベツ橋梁は1955年の糠平ダムの完成で線路が敷き替えられる前に使われていたもので、ずっと古い。

次は幌加除雪ステーションの駐車スペースに車を停める。

案内板に従ってまずは「第五音更川橋梁」へ。

少し歩いて「幌加駅」へ。

ちょうどツアーのグループとかちあわせしてしまった。

さて、予定では大雪エリアでまだ行きたいところがあったのだが、しばらく天候が不安定のよう。知床のあたりの方が安定しそうなので、知床に向かうことにする。

コンビニも何も無い車道を延々と走る。天気予報通り、一時どしゃぶりの雨になった。そろそろ昼食をとりたいところなのだがそんな店は見当たらない。たまにすでに廃業している店舗跡が出てくるくらい。

2時間くらい走り続けただろうか、突然温泉の案内板が目に入った。食事処もあるようなのでそちらに行ってみた。

小綺麗な施設で、まだ昼過ぎなので温泉には入らなかったがシンプルなラーメンでほっこりした。

さらに走り続けて、斜里町で道の駅の案内板があったので、昨年行った道の駅と思って行ってみた。

ここは温泉があったのでここで温泉に入っておこうと思って立ち寄ったのだが、たどり着いた道の駅は昨年とは違うところだった。温泉は無く、そのままウトロに向かった。

オシンコシンの滝をチラッと眺めながらウトロの街に着いた。

まずは温泉へということでネットでいろいろ調べたが、道路が工事中で入れなかったりして、なかなかいいところが見つからない。

道路工事の看板を見て迂回路を辿って、丘の上の温泉にたどり着いた。

思いがけずいい温泉でした。

そしてコンビニで食料を買い込んでウトロの道の駅に入った。

苫小牧へ

ここ3年、この時期は続けて北海道へ行っている。

北海道の山でどうしても登っておきたいと思っていたのが利尻山とニペソツ山で、利尻山は2年前に登頂を果たすことができたが、行程の都合でニペソツへは近づくことすらできず、昨年は行程と天候がうまく合わず、終盤にもう一度戻ってこようと思っていたら脚を痛めて登れなくなってしまった。

数日前の天気予報では北海道地方の天候はあまり芳しくなかったが、出発が近づくにつれて好天模様になってきた。

7/19(水)の夜のフェリーで敦賀から出港する。

2年前に初めてフェリーで北海道へ行った時はコロナが猛威を奮っていた頃で、船内ではもちろんマスク着用。時間潰しのイベントもまったく開催されていなかったが、今回は初めて船上ミニコンサートというのが行われた。

若い女性アーティストのアコーディコン演奏で、童謡などポピュラーな歌が 30 分ほど演奏されたが、演奏だけで歌は無し。中山うりの歌でも歌ってくれればおもしろかったのだけれど。

このルートでは津軽海峡を通る時に何とも言えない気分になる。すでに出港から十数時間経っていて、遠くへ来たという実感が感じられからである。飛行機だとこうはいかない。

特に津軽半島は昨秋に訪れたこともあって、その時の光景がありありと浮かんできた。

あれはおそらく小泊のあたり。

そして竜飛崎。

あのハゲたところは下北半島の仏ヶ浦のあたりだろうか。

そして大間崎。

予定通り夜の8時半に苫小牧に到着して、いつもと同じくマックスバリュで夜のビールと翌日の食料を買い出しして、ウトナイ湖の道の駅へ向かった。ここはいつも車中泊の車で混雑している。

*これは翌朝に撮ったもの

甲府から帰宅

6/24(土)はもう家に帰るだけ。身延線で静岡に出て、あとは新幹線で切符を買っている。

甲府駅のホームからは甲府城が見える。

ホームに電車がやってきた。特急の指定席を買っている。

席に座っていたら後からやってきた男性が席の確認をしてきた。何と同じ席の切符が発行されている。

その男性が車掌に問い合わせて、別の席に座られることになった。こんなこともあるのかとちょっとびっくりした。

ひょっとしたら富士山が眺められるかもと思って富士山側の席をとったが、残念ながらちらりとも見えなかった。地形的に晴れていても見えなかったのかも知れない。今回は富士山は一度も眺めることができなかった。

そして静岡駅で新幹線に乗り換え。

自動改札機に切符を入れたところ、有効期限が切れているという表示で止められてしまった。えっと思って特急券を見てみたら何と昨日の日付になっている。

昨日の朝に甲府駅のみどりの窓口で特急券だけ購入したのだが、窓口の人が間違って昨日の切符を発行したようだった。今朝、甲府駅に入る時は改札機に乗車券だけを入れるようにという表記があったので、特急券は手に持ったまま入った。

今朝、同じ席の切符が発行されていたのはこれが原因だったのだ。

駅員に伝えたら甲府駅に問い合わせて、私が購入したときに記入した用紙は間違いなく今日の日付になっていたことを確認して、今日の特急券を再発行してくれて事なきを得た。

やれやれということで缶ビールを買って新幹線に乗り込んだ。

御坂峠、天上山、甲府

6/23(金)はいよいよ太宰治ゆかりの地探訪の実質最終日。

まずはレンタカーで御坂峠に向かう。

できれば公共交通機関を利用したかったのだが、御坂峠へのバスは河口湖から1日1便のみ。しかもその運行時刻は信じられないもので、午前中に河口湖を出て御坂峠の天下茶屋まで行って、即刻折り返すというもの。つまりバスで来たら御坂峠で時間を使うことができないし、滞在したらその日には帰ることができない。しかも天下茶屋は宿泊はできない。富士急はいったいどう考えているのだろうか。

河口湖へ向かう R137 の途中から旧道に入る。この道は太宰が天下茶屋に滞在した頃には甲府からバスが走っていて、老婆と乗り合わせた時のことが「富嶽百景」で述べられている。

甲府から1時間ほどで御坂峠へ着いた。

10時前で、まだ天下茶屋は開いていなかった。

本当の御坂峠へ向かう山道を少し登ると太宰の碑が見つかった。

「富士には

月見草が

よく似合ふ」

残念ながら富士山はまったく見えず。

お次は 30 分足らずで河口湖へ。河口湖は 2016 年の UTMF 以来。ただしその時、滞在した場所からは少し離れているけれど。

天上山にある太宰の碑を見ることが目的で、時間によってはロープウェイで上がってもいいと思っていたのだが、とんでもない混雑ぶり。

大半が中国人の観光客の模様。レンタカーが最短でも6時間だったので時間があるので歩いて登ることにする。

細い登り坂があったのでチラッと見てみたらハイキングコースの案内板があった。

少し登ると眼下に河口湖。あの橋は 35 年くらい前に河口湖のマラソン大会で走って渡ったことを覚えている。

道はしっかり整備されている。

麓から 20 分くらい登ったところで前方に何やら気になるものが目に入って、まさかと思ったら目的の太宰の碑だった。

「惚れたが

  悪いか」

太宰の作品の中で私がもっとも好きなのは「お伽草子」で、中でも「カチカチ山」がお気に入りだ。その最後の方の出てくる有名なセリフ。人気のある「人間失格」や「斜陽」、「走れメロス」などはあまり好きではない。

それにしてもこの碑は天上山の公園にあるものとばかり思っていたのだが、もし歩いて登らなかったら出会うことができなかったし、麓とロープウェイの山上駅の中間くらいの場所にあるので上から下るにしてもそこそこ歩かなければならない。おまけに案内板のようなものはまったく見かけなかった。

今回の旅の目的で大きなものの二つだった御坂峠の碑と天上山の碑が見られて、安堵感と満足感にひたりながら登り続けた。

20分足らずでロープウェイの山上駅が見えた。

公園にはこんな看板が。

このあたりは大変な混雑で、観光客のほとんどは中国人のよう。

やぐらは閉鎖されていた。

公園から数分で天上山の山頂(1139.9m)に着いた。標高 1000m を超える山だが登山口が 800m くらいはあるので登りは大したことはない。

展望は無いので早々に下山する。

レンタカーの利用時間を1時間以上残して、午後1時半頃に甲府に戻ってきた。途中で「天下茶屋営業中」という看板が目に入った。

駅のそばのモスバーガーでハンバーガーを食べて、甲府市内を巡る後半戦へ。

まずは太宰治僑居(きょうきょ)跡へ。

字の読み方がわからなくてあとからスマホで調べた。

ここで過ごしたのは8ヶ月間くらいとのこと。

結婚するまでのあいだ下宿していた寿館という家のそばにある清運寺。

太宰のパネルが置かれていた。ちょっと不気味。

なぜか加藤清正を祀った清正公堂がある。

寿館はこのあたりと思われるが、昔の建物は戦災で焼けてしまっている。

よく通ったという銭湯の喜久之湯。

このあたりをよく散歩したという御崎神社。

どう見てもお寺にしか見えないのだがやっぱり神社なのです。

最後に湯村温泉へ。

20分くらい歩いてようやく湯村温泉へ。兵庫県の湯村温泉とは関係ありません。

そして太宰がよく行った「明治」に到着。

少し戻ったところにある資料室は閉まっていた。

駅まで帰るのに 30 分くらいかかった。

これで今回の旅は完了した。明日は帰るのみである。

吉祥寺、三鷹

私は学生時代、吉祥寺で三年間過ごした。しかしその後 40 年くらい訪れたことがなかった。卒業後も出張などで東京へは何度も行ったが、吉祥寺は都心から西に少し離れているので、足を延ばす機会がなかった。

今日の目的地は三鷹だが吉祥寺はたった一駅手前なので、この機会に懐かしの街を訪ねてみることにした。

6/22(木)は新宿のカプセルホテルを出て吉祥寺へ。JRの新宿駅はすっかり様変わりしていて、どういう構造になっているのかさっぱりわからなかった。

ここも駅の構造はすっかり変わってしまっていたが、駅前のアーケード街のサンロードはそのままの名称で残っていた。、

学生時代の通学では住宅街を歩いていたが、そちらに行くと曲がる場所がわからなくなってしまうので、バス通りの五日市街道に出ることにした。

五日市街道に出る手前にあったスーパーの西友がまだ残っていたのはちょっとびっくりした。

五日市街道を西に向かう。

住んでいたアパートは細い道を少し右に入ったところにある。曲がり角にあったセブンイレブンがローソンに変わっていたが、曲がる場所はすぐにわかった。

住んでいた頃は大家さんの大きな家が道路に面していて、アパートはその裏側に建てられていたのだが、今は道路に面したところに小さなマンションのようなものが建っていて、裏は民家になっていた。

アパートの裏側に銭湯があったのだが、さすがにその銭湯は無くなっていた。

駅に戻るのは住宅街を歩いた。15分ほど歩いて駅に戻ったのだが、その頃、週に3回くらいは通ったジャズ喫茶がどうなっているか行ってみようと思った。

この店は歓楽街の細い道のどこかにあって、もはや場所の記憶は無い。それに残っているかどうかもわからない。

ヨドバシカメラがあって、その裏のあたりの細い道を歩いていたら、何と発見!! 「MEG」が残っていました。

しかし昔のようにジャズを前面に出したような表記は無く、ジャズ喫茶というのはもはや絶滅危惧種になっているらしい。

満足して三鷹へ向かった。

まずは線路沿いに西に向かって跨線橋へ。残っているのかどうか心配だったがまだありました。

階段のそばに朽ちた案内板。

三鷹は太宰の作家生活で一番長く過ごした地で、ゆかりの場所もたくさんあって、おそらく観光資源として利用しているのであろうが、随所にこういう案内板が設置されている。

散策ルートのパンフレットに従って、「中鉢家跡」、「うなぎ若松屋跡」、「田辺肉店離れ跡」を通って「野川家跡」へ。

ここは二階に山崎富栄さんが下宿していた場所で、晩年の太宰はそこを仕事場所にしていた。入水の時もこの部屋に遺書などを置いてここから玉川上水に向かった。

そしてすぐ近くには「千草跡」。

ここの二階も一時期、仕事場所にしていた。

そして玉川上水沿いの「風の散歩道」に出る。

上水側はこのように木が茂っているのだが、一カ所だけ流れが見える場所があった。

今はこの程度の流れだが、その当時は人食い川と言われるほど水量が多かったらしい。

しばらく行くと上水と反対側の道路のそばに銘板。

もう少し進むとようやく「玉鹿石(ぎょっかせき)」が見つかった。

このあたりに二人で川に入った痕跡が残っていたらしい。

さて、上水沿いの道から分かれて「みたか井心(せいしん)亭」へ。

ここは三鷹市が所有する文化施設だが、ここの庭には太宰の家にあった百日紅の木が移植されている。

家はこの向いあたりにあったそうだが、案内板などは見つからず。

今度は井の頭公園のそばを通ってまた玉川上水の新橋へ。

昭和23年6月14日に太宰の行方不明が報じられて、6月19日にこの新橋の下で紐に結ばれた二人の遺体が発見された。

井の頭公園の方に戻って公園のベンチで一休みしてからまずは太宰家が通った銭湯の「連雀湯跡」の前を通って禅林寺へ。

案内板に従って墓地に入ったらすぐに見つかった。

19日が桜桃忌だったせいだろう、立派なお花がたくさん供えられていた。私は手ぶらでした。

ちょうど向かいには森鴎外のお墓がある。

散策マップに従って駅の方に戻る。

桜井浜江さんの記念ギャラリーの前を通って、朝に通った時はまだ開館前だった「太宰治文学サロン」へ。

小さなスペースに太宰関連の書物がたくさん置かれていた。椅子と小さなテーブルがいくつか用意されていて、そこでじっくり読むこともできる。飲み物も売っている。入場無料。

何冊かの本を手に取ってパラパラとめくってみて、クリアファイルとコースターを買って出た。

ちょうど昼時で、ずっと歩き回って疲れてきたので、近くのファミレスで昼食にした。旅行クーポンが使えた。

それから駅前のビルに入っている三鷹市美術ギャラリーへ。ちょうど今、太宰関連の展示をやっている。

太宰が住んでいた家の間取りが再現されていた。6畳、4畳半、3畳という小さな借家で、作家という職業にもかかわらず蔵書などはほとんど無かったらしい。

愛用したマントもかけられていた。たぶん本物ではないと思う。

ここも入場は無料だったが「太宰治 三鷹とともに」という、5年前の太宰没後 70 年の記念行事の時に発行された冊子を 1000 円で購入した。なかなか充実した内容だった。

旅行クーポンがまだ 1000 円ほど残っていて、これは東京でしか使えないので、駅のそばのカフェでコーヒーにケーキとしゃれこんだ。

東京の訪問予定地はすべて訪れたので、このあとは中央線で甲府へ向かう。特急で急いで行っても中途半端に時間が余るだけなので普通列車で行った。

甲府に着いたのは4時半くらい。今日は天気予報では雨模様とのことだったが三鷹では幸い、時々パラパラときたくらいで傘はささずにすんだが、甲府は本降りになっていた。

明日は河口湖方面にレンタカーで行く予定なのでレンタカーを予約しておいた。

駅のそばに大きな武田信玄像。

そして駅の反対側のビジネスホテルにチェックイン。

今度は山梨県の旅行クーポンがもらえたので、夕食はクーポンの使える「ほうとう」の店に入った。

ほうとうは別府大分毎日マラソンで別府へ行った時に「ほうちょうだんご汁」というのを食べたのが印象に残っているのだが、一昨年の秋に行った時には昔の店は無くなっていた。

この店のほうとうも具だくさんのボリュームたっぷりで、昼食のラーメン、餃子とケーキがまだ胃袋に残っている状態だったので最後は意地で完食した。

下曽我、江ノ島、東京

6/21(水)は熱海からまず国府津(こうず)へ行って、ここで御殿場線に乗り換えて一駅の下曽我へ。

下曽我は梅林が有名だそうだがもちろん今は梅の季節ではない。それよりも目的は「斜陽」の元になった日記を提供した太田静子さんが暮らしておられた雄山荘という別荘の跡を訪ねること。

太宰のファンだった文学好きの静子さんが太宰に手紙を送って、その後、太宰から「日記を書くといい」というアドバイスを受けて日記をつけていた。

そしていつの間にやら二人は恋愛関係になる。その頃、太宰はすでに結婚して子供もいた。

昭和 22 年に太宰はここ雄山荘を訪れて日記を受け取る。そしてその時をきっかけに静子さんは太宰の子を身ごもることになる。

そのあと太宰はその日記を持って伊豆の安田屋旅館にこもって「斜陽」を書き上げた。

雄山荘は十数年前に火災で消失しており、建物は残っていない。

簡単な地図を頼りに城前(じょうぜん)寺の前と思われる細い道に入る。

地図によるとこのあたりと思われるのだが案内板も何も無い。

細い道を辿って行ったら城前寺の前に出た。

曾我兄弟の仇討ちという有名な話があるそうだが私は知らない。この寺は曾我家の菩提寺だそうで、しばらく歩いていたら供養塔が現れた。

本数の少ない電車の時間に合わせて駅に戻る。戻る途中で出会った保育園の園児たち(おそらく)。こんなところにこれだけ小さな子供たちが住んでいるのを見てちょっとびっくりした。ひょっとしたら小田原あたりの通勤エリアなのかも。

後から考えるとどうも私の見た雄山荘跡は場所が違っていたのかも知れないと思った。ただ、歩いた経路を考えると城前寺へ行く途中で前を通っているはずなのだが案内板らしきものは目に入らなかった。ちょっと心残りではあるが、いずれにしてももう建物は残っていないので、わざわざ再訪するほどのことでも無いだろう。

国府津からまた東海道線に乗って藤沢へ。藤沢から江ノ電に乗り換えて江ノ島の少し先の腰越に向かう。

江ノ電は平日にもかかわらずずいぶん混雑していた。大半が観光客と思われる。

腰越駅からまずは小動(こゆるぎ)神社を参拝して、それから海岸に回り込んだ。

小動神社は前の断崖の上にあって、この海辺の海岸あたりで昭和5年、太宰 21 歳の時に銀座のカフェの女給だった田辺あつみ(田部シメ子)と薬物心中をはかった。

太宰は一命を取りとめたがあつみは死去した。

このころ太宰は青森の芸者だった小山初代と一緒になる予定で、あつみは他の男性と同居していた。しかも太宰とあつみは知り合ってまだほんのわずかの日しか経っていなかった。

太宰の実家(津島家)はあと始末に大変な苦労をされた模様。

この時に太宰が収容された病院が google map にまだ記載されていたのでそちらに向かってみたが、どうもすでに取り壊されたような様子。

腰越の一つ鎌倉寄りの鎌倉高校前駅から藤沢に戻った。観光客のほとんどは中国人のよう。

さて、久しぶりの東京へ。何かよくわからない経路で1時間足らずで新宿に着いて、山手線に乗り換えて巣鴨へ。やってきたのは染井霊園。

あのソメイヨシノはこのあたりの植木職人たちが開発したのでソメイの名前が付いている。

この霊園には著名人のお墓がたくさんあるのだが、私の目的は松浦武四郎。

武四郎は遺言で、自分が死んだら一畳敷を壊してその木で遺体を焼いて、遺骨は大台ヶ原に播いてほしいと言っていたのだが、一畳敷は文化的価値が高くて壊すのはもったいないということで保存されることになり、遺骨は一部が大台ヶ原に置かれて、ここ染井霊園にお墓が建てられた。

お次は今回の旅の最大の目的の一つの本郷の永泉寺に向かう。地下鉄を乗り継いで江戸川橋で降りて、駅からは 10 分足らずくらいだった。

染井霊園の武四郎は案内板が設置されていたがここはそういうものは一切無く、狭い墓地をうろうろ歩いてようやく見つけた。

太宰と玉川上水に入水した山崎富栄さんの眠っているお墓。6/19 が有名な太宰の桜桃忌で、6/13 はあまり有名ではない白百合忌だったせいか、きれいなお花が供えられていた。

富栄さんは享年が記載されていない。

お墓が見つかるかどうか不安だったので手ぶらでやってきたが、ほんの少し坂を下ったところにコンビニがあったのでそこで小さな缶ビールを買ってきて、墓石にかけてお参りした。

富栄さんは特に文壇からひどい誹謗中傷を受けて、太宰を殺した殺人犯のような汚名をきせられてきたが、そんなことは決して無いと思う。晩年の作品は富栄さんの助力無しには生まれなかったということは彼女の残した日記を読めば明らかだ。

またまた地下鉄を乗り継いで末広町へ。場所の関係で前後してしまったがここには松浦武四郎が暮らした家の跡がある。

おおきな楠のふもとに銘板が建てられている。

さて、最後に銀座のバー、ルパンへ。Lupin の看板はもっと赤色だったのだけれど・・・。

何と言っても有名なのがこの写真。一度ビルが建て替えられているけれど店の作りはほとんど昔のままだそうです。何と、黒電話が現役で働いていました。

ビール小瓶とマティーニ、ウインナーで 5000 円弱。安くはないけれど銀座だし、明瞭会計です。

カウンターと他には数席くらいの小さな店で、平日の6時くらいに入ったけれどすでに7割くらいは席が埋まっていました。

店を出てもまだ明るい。

今宵の宿は新宿へ。

久しぶりのカプセルホテル。ソフトドリンクやごはん、つけもの、味噌汁が食べ放題。夜はアルコールも提供されていて、非常にコストパフォーマンスが高かった。それにカプセルホテルだと大きな風呂に入れるのがいい。

満足の一日でした。

伊豆、三島、熱海

昨年の秋に太宰治ゆかりの地を訪ねて津軽へ行ったが、太宰の作家としての活動はほぼ東京が拠点だった。なので東京を中心としたゆかりの地もぜひ訪れてみたいと思っていた。

ちょうど梅雨の最中で山では天候が不安定なので、このタイミングで街歩きの探訪に出かけることにした。

6/20(火)の早朝の新幹線を乗り継いでまずは静岡県の三島へ。

三島の街歩きは後回しにして伊豆箱根鉄道とバスを乗り継いで三津(みと)の安田屋旅館に向かう。案内では「三津シーパラダイス」という停留所で降りると書かれていたが、手前の「シーパラダイス駐車場」で下車される方がおられて、ふと見たら安田屋旅館の駐車場という看板が目に入ったので私もそこで降りた。

安田屋旅館はここからほんの 100m くらい先のところにあった。

建物は昔のままだそうだ。

太宰は下曽我(翌日訪れる予定)で太田静子さんの日記を借りて、この宿で「斜陽」を執筆した。

「海は、かうして

お座敷に坐って

ゐると、ちやうど

私のお乳のさきに

水平線が

さわるくらゐの

髙さに見えた。」

終点まで行ったバスがちょうど戻ってきたのに乗って、わずか 15 分くらいの滞在で往路と同じ経路で三島に戻った。

太宰は若い頃、何度か三島の知り合いの家の部屋を借りていくつかの作品を執筆している。

三島は街のいたるところに富士山の伏流水が流れている。

この小川沿いには幾人かの作家の碑が並んでいる。

太宰の碑はかなり先にようやくあった。

ここから少し離れたところに、居候していた「坂部武郎酒店」があったのだが、もはや何も残っていない。

ただ、夜はしばしばすぐ近くの「松根印刷所」の二階で寝ていたそうである。

三島駅そばの立ち食いの店で昼食を済ませて、熱海に向かった。

まずは温泉街とは反対の山側に向かう。「人間失格」の執筆のために山崎富栄さんと滞在した起雲閣別館はこの上の方にあった。富栄さんの日記に「どうも、どうも、山の上だけあって全く、「登る」です。」と書かれているように、神戸の山手に勝るとも劣らないくらいの坂を上る。こんなところをショートカットする。

そんな道を 20 分近く登っただろうか、威容な建物が目の前に現れた。

起雲閣別館はもう何年も前に無くなって、「ラ・ヴィ熱海」というリゾートマンションに変身している。

このあたりに碑が置かれているということだったのだが、どこにも見当たらない。建物のそばの朽ちた階段を上がったりしてみたがやはり発見できず。

うろうろしていたらちょうど玄関先でマンションの清掃をされているような女性がおられたので尋ねてみたが、「知らない」とのつれないお返事。

マンションの清掃をされているのであれば隅々までご存知のはずなので、そういう方がご存知ないということであればもう無くなっているのかも知れない。

仕方無いのであきらめて、登ってきた坂を下って線路の反対側の温泉街の方に向かった。

熱海といえば2年ほど前に人災のような大規模土石流が発生したことを思い出した。調べてみたら発生現場はここよりはだいぶ東京寄りの場所だったようだが、こんな地形であれば土砂崩れが発生してもまったく不思議ではないと感じた。

お次は起雲閣の本館へ。ここはかつては大金持ちが別荘として所有していたもので、太宰や何人かの小説家が利用していた建物だが、今は熱海市が所有して文化財として公開している。

入館料(610円)を払って中に入る。太宰が滞在した部屋も当時のままで残っている。

ちなみに太宰は伊豆の安田屋や起雲閣など非常に高級な宿に泊まっているが、自分ではほとんど金を払っていない。たいがい出版社の負担だった。

次には歩道の無い交通量の多い車道をしばらく上って「緑風閣」へ。ここは檀一雄と滞在したところで、檀の作品に「碧魚荘」と書かれているところ。

ずいぶん駅から離れてしまったが、ここから駅の方向に戻る。

檀一雄が太宰を訪ねて行った「村上旅館」。まさか営業はしていないと思うが看板はかかっていた。

このあともう一カ所太宰が滞在していた「旅館八百松」を探してみたが、結局どこかわからず。このあたり?

今日の予定の訪問先はすべて辿ったので、今宵の宿は駅の近くの「伊東園ホテル 熱海館」。

ほぼ 9000 円の宿泊料でバイキング朝夕二食付き。おまけに夜はアルコール類も飲み放題という破格の値段で、料理の質もそんなに悪くなかった。夕方、夜、朝と温泉も3回楽しんで、とても満足できました。

日出ヶ岳、斎宮歴史博物館、松浦武四郎記念館

松浦武四郎のことを知ったのはほんの2年前くらいだったと思う。北海道へ行くようになってからのことだ。

松浦武四郎は幕末から明治にかけて活躍した人で、その当時まだ細部が知られていなかった北海道(その当時は蝦夷)を何度も訪れて、樺太や千島列島にも足跡を残して、アイヌと交流しながら詳細な地図を作り上げた。

明治政府からの依頼を受けて蝦夷と呼ばれていた地に「北海道」という名称を付けた。ただし武四郎が候補に挙げたときは「北加伊道」という字をあてていた。

関連本を読んだり、YouTube にアップされている映像をいくつか見たりして、松阪市にある記念館には一度訪れてみたいと思っていた。

武四郎は晩年に何度か大台ヶ原へ行っている。大台ヶ原に武四郎の碑があることを知ったので、まず大台ヶ原へ行ってこの碑を訪ねて、それから松阪の記念館に行こうと思った。ついでに記念館からさほど遠くないところにある斎宮歴史博物館にも行ってみよう。

6/10(土)の朝5時半に家を出た。天気予報では午前中はまぁまぁだが午後からの降水確率が高くなっている。雨の多い大台ヶ原だが午前中はもってくれることを期待しよう。

途中で朝食のパンを食べて、3時間ほどで大台ヶ原に到着した。

まずは車の中でコーヒーを飲んでから軽装で出発した。武四郎の碑までは30分もあれば行けるだろう。

大台教会のそばを通って行くので教会の看板のところに入る。

すぐに大台教会があった。明かりが見えるので誰か住んでいるのだろう。

1年のうち半分くらいは閉ざされた場所なのだけれど、どういう人たちがここに来るのだろうか。教会とは言うもののキリスト教の教会ではないようで、いわゆる新興宗教の一種のようなものだろうか。

このそばを通って少し行くとゲートがあって、管理人がいた。何と、この先は保護エリアなので入るには許可が必要で、そのためにはお金を払ってレクチャーを受けなければならないとのこと。

いきなりのハプニングでがっくりきたが、そういうルールになっているのであれば仕方ない。とりあえずは戻るしかない。

とにかく今日は諦めるしかないのだが、このまま収穫無しでここを離れるわけにはいかないので、日出ヶ岳だけでも行っておくことにした。

ビジターセンターの横からハイキング道に入る。

25分くらいで展望台に出た。展望台からの熊野灘。

その後、階段を5分ほど登って山頂の展望台へ。

ビジターセンターから30分ほどで日出ヶ岳の山頂(1695.1m)に到着した。ここは3年ぶりくらい。

今度は山頂からの熊野灘。

台高山脈の山々。

西に目を向けると大峰山脈。右に山上ヶ岳。その左の突起が大普賢岳。さらにその左の小さな突起が行者還岳。さらに弥山、八経ヶ岳、そして釈迦ヶ岳。

1時間ほどで日出ヶ岳を往復して、お次は三重に向かう。経路の都合でまずは斎宮歴史博物館へ。途中で昼食を取ったので3時間以上かかった。

斎宮というのは飛鳥時代から南北朝時代くらいまであったもので、天皇の代わりに伊勢神宮に仕える斎王と呼ばれる女性が暮らした施設で、この近くの広大なエリアで様々なものが発掘された。

ちょうど15分ほどのビデオ上映があるとのことで、まずはそれを観賞。

展示室は二つあって、なかなか充実していた。

入場料360円にしては立派な展示だった。

さらにこのあと、2種類あるうちのもう一つのビデオを鑑賞した。

本当ならこのあとそばにある斎宮跡を訪ねたかったのだが、すでに午後3時でこの広大なエリアを歩いていると武四郎記念館が閉まってしまうので、斎宮跡はまたあらためて来ることにして武四郎記念館に向かった。

武四郎記念館までは30分くらいだった。

ここも入場料は360円。

展示室に入ると武四郎が晩年に自宅に作った一畳敷の原寸大模型が展示されていた。

それにしても武四郎の筆まめさには驚かされる。特にスケッチが非常に巧妙で、こんな精細な絵が短時間でよく書けるものだと感心する。武四郎の時代にはそろそろ写真機が登場していたと思うが、一般人が使えるようなものではなかったのだろうと思う。

武四郎よりは少し後の時代になるが、イザベラ・バードも精巧な絵をたくさん残していた。

このパネルは唯一残っている武四郎の写真で、首から下げている飾り物の複製品が展示されていた。

展示室は1カ所のみで、斎宮歴史博物館よりは小ぶりだった。土曜日なので混雑しているのではないかと懸念していたが、実際には見学客は入った時に他に一人おられただけで、私の後には誰も来なかった。どうも一般的な知名度はあまり高くないようだ。

この近くに武四郎が生まれた家が残っているとのことだったが、もう時間も無いのでそこには立ち寄らなかった。

大台ヶ原の武四郎の碑を見ることができなかったのが心残りではあるけれど、武四郎の碑は北海道だけでも10箇所以上あるし、いずれにしても後世の人が建てたもので、観光目的で建てられたようなものも少なくないと思うので、あまり無理してまで訪れるほどのものでもないような気もする。