『走ることについて語るときに僕の語ること』

唐突だが、私はかなりひねくれた性格である(と思っている)。
とにかく世間での流行やブームと言ったものにまったく関心が無く、むしろ反発すら感じてしまう。われながら『何もそこまで・・・』と思ってしまうのだが、持って生まれた性分は如何ともしがたい。
私は大阪在住だが、このところの大阪駅周辺の賑わいにはまったく関心が無いし、ディズニーランドやUSJ、東京スカイツリーなど、行ったことも無いし行きたいとも思わない。むしろそんな人混みには近づきたくないとすら思う。
そんなわけでここ何年かの、社会現象とも言えるくらいの村上春樹ブームには目を背けていた。
学生時代には粋がってドストエフスキーの全集を集めたりしたが、はっきり言ってただ字面を追っていただけだ。ジャズ喫茶での単なる時間つぶしでしかなかった。
その後はフィクションにはほとんど興味を感じなくなり、小説はもとより映画、ドラマなどもほとんど接することが無くなったまま今日に至っている。
村上春樹の作品ではなぜか『ノルウェイの森』を読んだが、正直言ってよくわからなかった。この作品のいったいどこがおもしろいのだろうかという感想しか持たなかった。ストーリーもまったく覚えていない。
その後の村上春樹ブームはまったく無視でやり過ごしてきたのだが、最近の新刊のブームのせいで、暇つぶしのネットサーフィンをやっていると至るところで村上春樹関連情報に行き当たる。
氏がマラソンランナーであることは漠然とは知っていたけれど、どのくらいのレベルなのか、どれくらい入れ込んでおられるか、ということはまったく知らなかったし、強いて言えば興味も無かった。
ところがたまたま最近見かけたコラムのようなもので氏がマラソンについて少し語っておられるのを読んで、反射的に『これはホンモノだ!』と感じた。運良く図書館で氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』がすぐに借りられたので、さっそくひもといてみた。
あまりのおもしろさに魅了されて、ほとんど一気に読了した。そして読了するやいなや最初のページに戻って、2回目を読み始めた。氏はこの本を『エッセーではなくメモワール』と言っている。確かにいわゆるスポーツ・ノンフィクションではなく、あくまでも氏の個人的な心の動きを語ったものだ。
氏も言うように、作家でランナーという人はかなりめずらしいと思う(ここで言う『ランナー』というのは、客観的な走力は別として本人の気持ちは競技志向で取り組んでいる人のこと。気分転換にジョギングを楽しむだけの人のことではない)。私が知る限りでは他には灰谷健次郎(故人)くらいだろうか。
一般的なイメージとして、作家や音楽家。画家などの芸術家というのは不健康で退廃的な人たちという印象が強い。そうでなければ良い作品を産み出すことはできないとすら思われている。氏もこのことを認識されており、実際にそういう側面があることを肯定されている。
しかし氏の場合はマラソン(もしくはトライアスロン)を続けてきたことが作家としての成長のベースにあって、本当の心の底のドロドロしたものを掘り下げてそれを作品に仕上げていくためにはとてつもない体力が必要で、『不健康なイメージの作品を創り出すためには健康でなければならない』というふうに考えておられるようだ。そういうとらえ方は理屈としてはわかるような気がする。
この本で一番印象的だったのは、氏が自らの老いについて語っておられるところ。氏がこの文章を書かれたのは今の私とほぼ同じくらいの年齢の頃だ。
氏の場合は40台後半あたりから記録の低下が始まったらしい。私は記録の低下という意味ではもう30台後半から始まっているが、体感とのずれが生じるようになったのは50歳を過ぎてから。氏はちょうどこの本を書かれている頃がそういう時期にさしかかっていたように思われる。
一言で言えば『練習がレースの結果に結びつかない』ということ。レースにおいても、終盤に思いもよらないペースダウンに見舞われる。たとえ序盤をセーブしたとしても。
一流選手も引退前のレースはそんな感じだ。瀬古利彦、高橋尚子、有森裕子、高岡寿成・・・。それが『老い』というものなのだ。
ただ幸いなことに、氏や私はプロランナーではないので、どんなに衰えても引退する必要は無い。自分が納得できる限り、走り続けることができる。
調子に乗って、また図書館で『Sydney !』と『意味がなければスイングはない』を借りてきた。私は学生の頃からずっとジャズに親しんできたが、氏も20台の頃はジャズ・クラブのようなものを経営されていた。たぶんそんなことも氏の文章に共感を感じるベースにあるのかも知れない。
これらの感想はまた改めて。
しかし本業の小説を読んでみたいとはまだ思わないなぁ・・・。