英彦山

八女のホテルに泊まったのは筑紫君磐井の墓とされている岩戸山古墳を訪ねるため。筑紫君磐井は古代最大の内乱と言われる「磐井の乱」(6世記)で継体天皇時代のヤマト王権と戦ったこのあたりの豪族で、日本書紀などのヤマト側の史料ではヤマトに歯向かった反乱者ということになっているが、こちらでは地元民を守るために戦ったヒーローという位置づけになっている。

当時の朝鮮半島における戦いに対する対応の違いが原因で内乱になったようだが、すでに新羅と交流関係を築いていた磐井と、ヤマト王権の思惑が食い違ったというのが根本原因のよう。

日本書紀では磐井は敗れて死んだことになっているが、「筑紫国風土記」には逃げて生き延びたという記述が残っている。

生前から自らの古墳の構築を進めており、その規模はヤマトの歴代の天皇の古墳にも劣らないほどの巨大なものである。

その岩戸山古墳はホテルから車で 10 分くらいの場所にあった。古墳のそばに「いわいの郷」と呼ばれる歴史文化交流館が併設されており、その前に磐井の像が建てられている。

交流館は立派な造りで展示物もたっぷりあったが、何と入場無料。

一通り眺めて裏から外に出るとそこが岩戸山古墳。宮内庁の治定にはなっていないようで(ヤマトの反逆者だから?)、自由に入れる。

1時間ほど過ごしてから福岡県と大分県の境にある英彦山(ひこさん)に向かった。この山は当初の予定にはまったく入っていなかった山なので地図を用意してきていない。たまたまスマホで地形図を眺めていて見つけた山。

弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられている。

ここを登ったあとには由布院まで行くので、最短距離の高住神社から往復する。

2時間少々走って12時頃に高住神社に着いた。紅葉のためか観光客が多かった。

12時15分に駐車場を出発した。

登山道がどこなのかわからないが、とりあえず参道を上がって本殿へ。高住神社は神仏分離されるまでは「豊前坊」とか「豊前窟」と呼ばれる修験道の行者たちの修行の場だった。大峰、羽黒山とともに「日本三大修験山」の一つに数えられているということは帰ってから知った。

本殿のすぐそばに登山道の入り口があった。

さすがに修験道の山だけあって岩のゴロゴロする急登が続く。溶岩の壁。

人気の山のようでハイカーが多い。もう昼過ぎなので下山者と頻繁にすれ違う。

こんなところも。

30分ほどで尾根に乗り上げると道はいくぶん穏やかになった。

展望場所から東の方向の眺め。尖っているのは由布岳だろうか。

出発して50分で北岳(1192m)に到着した。

右に中岳と左に最高峰の南岳。中岳の山頂には建物の屋根が見える。

ここから先の鞍部はブナ林。

紅葉の美しいところもあった。

北岳から20分ほどで中岳に到着した。広いスペースがあってたくさんのハイカーが休憩していた。

1200メートルの表記のある標柱が立っていたが、ここは1200mではない。

中岳の山頂にある上津宮は倒壊の危険があるとかで近づけないようになっている。

上津宮の麓を回り込むようなかたちで数分で南岳(1199.5m)に到着した。

山頂には神社。

お参りしたら来た道を引き返す。途中でおにぎり休憩をしながら南岳から50分ほどで下りてきた。

さて、これから由布院まで移動する。

由布院は長年のあこがれの温泉で、一度はここで宿に泊まってみたいと思っていた。直前に翌日の宿は予約したが、今日は由布岳登山口で車中泊するので、その前にひと風呂浴びていく。

3時間ほどかかってようやく由布院に到着したが、最初に目的にしていた温浴施設にどうしても辿り着けず、代わりに行ったのが乙丸温泉館。

まさに地元の人御用達という銭湯で、受け付けも無くてここに200円を入れて入る。

鹿児島初日に買った石けん、シャンプーの残りをとっておいたのがここで役に立った。

その後コンビニで食料を調達して、由布岳登山口の駐車場にたどり着いた。

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